咄嗟に思いうかんだのは、動物園育ちの類人猿のことである。何事かの不在が、母と子をして母や子として成しえることなく、ただの存在物であるかのごとき
個体として孤立せしめ、次々と関係障害の病理を呈してゆく(森の中の彼らにこのような事柄が皆無であるとも思えないけれど)。それを、人類創世の闇のうち
にあったであろうヒトが人となるにあたって突き当たった錯乱ということもできるだろうし、家族の崩壊や伝統文化や歴史の消失という切り口で、成されるもの
としての人間と、成すものとしての社会や時代や文化の問題につなげることも可能であろう。生得的な精神病理という見方でさえも、素因(今風に言えば遺伝子
か)と環境の関数としての病理という病因論の公式を外さぬのだとしたら、内因発現に幾ばくかは関わるであろう外因としての環境要因を抹殺するわけにはゆか
ぬのであるから、犯罪者個体の内に独立して生起した異常と断定してしまうわけにはいかぬであろう。
形成するものといい、形成されるものといい、かの少年の身の上で経過した時間の質とその結果が、何事かの不在の抗いとしての異様な悪が、彼にまつわる人間の存在と不在の軋みが問われているように思われる。
親愛の情つまりは親愛関係の欠如。と、私は動物園育ちの類人猿の病理と同様に、今回の事件の核心をそう断定してしまうのだが、それは、関係の不在
ということでもあろうか(もちろん、「関係の不在」を纏う関係はあるのであり、まさにその不在をまとい装う関係が人間としての「悪」なのだ)。そのような
要約をもって(簡単な要約では済まぬ事柄であることは十分に承知した上で言うのだが)幾多の評論や見解を眺めみると、私には皆が皆、言葉としては半ば同じ
ことを言っているような気がして仕方がないのである。学校教育やバーチャルリアリティ云々は枝葉の挿話にすぎない事柄であり、何事かの不在の有様やその形
成を問うことの向こう側に、人間存在の深き根拠をどう見据えるのかが問われているのだ。
人間というものに抱かれたイメージが根底から損なわれる
ようなこの種の事件は、おそらく人類の創世期の闇が明けぬ現れでもあろうが、人類史としての人間の個体史がいつでも創世を内包しているということの証とし
て見れば、時代を問わずこの種の事件が起こりうることをも意味している。と同時に、それを全きに阻止しえないにもかかわらず、阻止せんとする人間の人間と
しての人類史の黎明をも意味しているのではあるまいか。
三十年前、イギリスで起きた同様事件を分析した書物を翻訳紹介している林弘子は、子どもによる殺人は少なくはないが、今回のような「動機のない」殺人は非常にまれであるとして、「反社会的人格障害」という考え方を紹介している(西日本新聞七月十日)。
四歳と三歳の男児を絞殺した犯人、十一歳のマリー・ベルという少女は、
おまえたちはまぬけだ
だってあたしたちがころしたのだマーチン・ブラウ
ンを
おまえたちもっと
きをつけろ
またころしがあるぞ
デカやろうへ
というメモを犯行メッセージとして残したという。たえず暴力を振るい、うそをつ
き、ハトの首をしめ、ついには幼い子どもたちの首に手をかけた犯人の少女マリーは、まるで「酒鬼薔薇聖斗」である。犯行の奥に潜む「動機」あるいは犯行自体を、「助けをもとめる少女の叫び」であると解釈する著者は、われわれの無理解と無関心と抑圧こそマリーの共犯者であると告発し、マリーのケースは「非常にまれなもの」ではなく、広く普遍的に存在している潜在的な人格障害の問題がもっとも深刻な形で顕在化したケースなのだという。
①他人に対する感情の欠如、②衝動的行動、③攻撃的行動、④羞恥心の欠如あるいは良心の呵責の欠如、⑤罪悪感の欠如、⑥悪徳を表明し危害を加えた
いという欲求、などと特徴づけられた「反社会的人格障害」という「病名」。それは裏がえせば社会的人格形成不全とも言いうるものであろう。なる程、感情・
羞恥心・良心・呵責・罪悪感の欠如と、現象を羅列してみればその通りである。
他者の接触を極度に畏れていた自閉症のドナ・ウイリアムズは、「身も凍るような、泣き叫びたいほどの発作の正体は、このあふれ出した感情だったの
だ」と、恋人に触れらて生じた情動のパニックから、〈感情〉という事柄を発見した。感情の本質は、他者へ向かう情動のうねりであり呼びかけである。苦しみ
とは、他なる何者かへ向けられる叫びである。喜びとは、良き人へ向けられる語りかけである。叫びといい、呼びかけといい、語りかけといい、他なる者へ向い
向けられ発せられる〈声〉である。
「おかしくもなし独り居の屁」
誠に他なる者なしに感情は沸き立たぬのである。ところでしかし、〈感情〉は本当にわたしに発し、自己に沸き立つの
か。〈感情〉は自己の占有物なのか。〈感情〉は、ドナの内からあふれ出したのか。そうではあるまい、本当は。〈感情〉は、自己に内在しているモノではな
い。わたしの外に在り、至り来る事柄なのではないか。他なる者の視線こそが、叫び、呼び、語ることに先立ってあり、それが叫ぶことを可能ならしめる。〈感情〉の起源は、他者の存在、その視線の照射にある。そうだとすると、「他人に対する感情の欠如」といった物言いは、中途半端で根が浅い。〈感情〉の本義は
他なる者の視線であり、その応答として生起する事柄なのだ。
社会的人格、それはいったい何に由来するのか。この問いが発せられたのかどうか不明なのだが、いったい社会的人格とはどういうことなのか。人間とはいったい何ものであり、何事なのか。ついに「透明な存在」という自己観念の幻想から抜け出すことなく、その透明を色あげする他者を発見することがなかっ
た人間の悪。弱き無辜の存在たる他者に向かうべき人間としての自己発見の冒険が、当の他者たるべき儚く弱き者を「野菜」として毀損する悪業に転落する。その行為は自己をますますもって漂白し、おのれの人としての根拠を失わしめることしかなかった訳だ。エゴの無軌道に見える膨張とは、実は自己の拡がりなぞではなく人間としての自己の極小化にすぎぬのだが。自己の人間存在を染色することがなかったこの少年の、その人間をどう考えればよいのであろう。反社会的人
格障害というレッテルは、はたしてこの少年や少女の存在の深き欠落に届き得るか。
分かりやすい話として言えば、人は人として生まれるのではなく、人に成るのだという言い方で十分に事足りる。決定的な何事かが人として育つべき生育歴において欠落していたとも言いうるのだろう。女性週刊誌などスキャンダル・ジャナーリズムが得意とするこの領域の具体的な探索結果(それで何かが分か
るとも言い難いのだが)は少しずつ明らかとなろうが、メジャーなメディアは、糞真面目に社会化すること、社会と時代の病理として「わたしたち」の問題とす
ること(集合形の呼びかけが集合的であればあるほどに、逆説的に各要素たる個に届くことがないように、決して「わたし」個々に負わされることのない問題と
してしか「問題」足りうることがない)に終始しているように見受けられる。それは、先のイギリスの識者の「普遍的に存在している潜在的な人格障害の問題」
という言い方の「普遍的」ということの敷衍でもあり、「われわれの無理解と無関心と抑圧こそ共犯者」なのだという時の「われわれ」という立場の反省意識な
のでもあろう。
こういった真面目な面々は、「非常にまれなもの」をまれではないと言い募る。「わたしたち」の問題、「社会」の問題と言い募ればつのるほどに、〈われわれ〉と〈社会〉は虚ろに遠ざかってしまう逆説ゆえに、私は「理解を示さない仕方こそが、真に理解に達する道である」という逆説を対
置してみたくなる。それは、この場合、この事件の本質を社会と時代に還元せず、〈人間〉の問題として考え尽くすことであり、当事者たる子どもや親にすり寄
らず共感してみせないということでもある。堂々とした教説が陥る倒錯が、人間存在の深き根拠を漂白しないためにも、それは必要な手続きではあるまいか。
わたしは何故にわたしであり、あなたではないのか。私が、他の誰でもないわたしであるというのはどういうことなのか。肉体という革袋に隔てられ、モノとして在るわたしの固有性。ここに在ることによって、そこに在ることがかなわぬという個体性の自明。その自明性が、感じ、考え、意識し、思念する自己
を、モノとしてのわたしに内在する「内面」として、わたしという存在物に帰属し占有される「自我」として演繹する。
わたしのからだは私の体であ
り、あなたの体ではないことが自明だとして、私の体を意識し、あなたの体を感じ、あなたに向かい思ふ、つまりはわたしという自己意識は、私という存在物に
内在し、私が占有するモノなのか。わたしは私であり、私のものであるという時の私、私のものであると思考するわたし、それは何者なのか。内存在の「自我」、それは神話ではないのか。
自他を隔てる革袋を隔壁として意識するわたしは自なのか他なのか。隔壁を隔たりとして感じる自は既にして自にあ
らざるものである。自足する自に壁は存在しない。自に至り来る他こそが、自をして革袋を意識せしめるのではないのか。他によって自は自たり得る。他によっ
てしか自は自として勃起することはない。自他未生という有り様は、自他を統べ、存在を統一するという意味での「神」にまつわる神話である。宇宙の果てまで
飛翔し、存在と一体となるといった超越や無についての修行や思念は、実は自我や我執からの離脱を図る我欲の現れとしての自我の極大化であり、人間としての
自己の極小化を意味する自我神話の一形態である。革袋の消失を意味するお伽話である。自我神話の神は、〈神〉にあらざる我欲の結晶である。〈神〉は何者か
としてあるのではなく、事柄として関係として自我という存在を襲い打ち壊し、人間という自己を勃起せしめる何事かとしてある。
自我神話の世界に他者のいる余地はない。その神とは我欲そのものなのだから。我欲は人間に在らざる存在である。隔壁なき存在、全体であり無である存在それ自体。「透明な存在」とはそういった意味ではなんと適切な表現であることか。それは、〈神〉と人間の不在である。自我神話の神を信奉する者、それ
を近代人だとすると、件の神戸の少年は自我神話の神のもとにある立派な近代人、近代人の鑑であろうか。そこに善も悪もない、かのような神話として自我は極められた。
ところが、神話が神話である所以は、隔壁なき存在であるはずの我欲的自我にとって、隔壁がなくなることがついにありえぬからである。
熱狂と錯乱のうちには隔壁はない。それは悪としての悪であり、存在としての悪である。それは青天白日の元にあり、秘匿されることのない、隠されることのな
い悪である。青天白日はおのれ自身なのであり、秘匿すべき他はありえぬのだから。熱狂と錯乱のうちには、神話の居場所はない。秘匿される悪、それは存在と
しての悪とは違うものだ。やはり人間としての悪業なのだ。肥大する自我といい、極大化する我執といいながら、やはり善なる他者を当て込んでいるのである。
自我神話は、内在する我欲としての自己の極大化を、他者の不在を、「関係の不在」をまとってはいる。しかし、不在を纏いながら秘匿せんとする関係はあるの
であり、まさにその不在をまとい装い秘匿せんとする「関係」こそが人間としての「悪」の由来ではないのか。神話の内では、不在は不在として、何者にも、何
事にも抗うことなく唯在るだけである。しかし、神話にあらざるこの世では、実は不在をまとい装う関係として「不在の抗い」を装いながら人間の悪となるの
だ。
・・・・ 他者への責任のうちには、人間性を構成する記憶可能ないかなる決定よりも古き拘束のごときものがある
ということです。他者に目覚めないことの可能性が人間のうちにあることは明白です。悪の可能性があるのです。悪、それはただ存在だけからなる秩序です。逆に、他人へと向かうことは、存在のうちに人間がうがった突破口であり、「存在するとは別の仕方で」なのです。
・・・・ 聖潔という理想(引用者注:他人の優
先権を認めうるという人間の可能性。人間とは聖潔が異論の余地のないものであることを認めた者だ・・・・)は、人間が存在のうちに導入したものなのです。
聖潔という理想は存在の諸法則に反するものです。
・・・・均衡を取り戻すこと。これが存在の法則です。病もなく例外もなく無秩序もない、それが存在の秩序
です。
(E・レヴィナス『哲学、正義、愛』)
「神は存在である」という巷間に通用している伝統的な神-実在論を覆し、神は存在の彼方であり、「存在するとは別の仕方で」ある、「神は他者のうちに真に現前
している」、「他者の〈顔〉のうちで私は神の〈言葉〉を聞く」、などと聞き慣れない言葉遣いで〈神〉を語るレヴィナス。私たちの神仏の伝統からすると、本
当のところはよく分からぬのだが、「なにものか」ではない、他者との関係のうちにあるとGodされる〈神〉ならば少しはわかりそうだ。〈神〉は白人種の専
売ではないのだから。わたしたちにも慈愛慈悲もあれば、仁もある。惻隠だってあるのだ。神というかたちに就き憑かれない倫理的関係としての愛や仁や惻隠
は、超越する統一体として神の存在を説く者たちの虚無に風穴を開ける。愛や仁や惻隠こそが、人間の文明の取り柄、起源でありはじまりなのだ。
そのレヴィナスは、「他者に目覚めないこと」「ただ存在だけからなる秩序」と悪を規定する。悪とは何事か。存在の法則に従う秩序。それを存在としての悪とすれば、その悪は存在の法則に無秩序をもたらすものとしての人間にとっては、無差別・無軌道・無法則な事柄であるはずだ。つまり、ただ存在の法則
だけからなる秩序は、人間にとっては無秩序なのであり、逆に人間にとっての秩序は存在の秩序を乱し無秩序をもたらす。
では、存在の法則がなす秩序としての悪が、無差別・無軌道・無法則・無秘匿ではないことが大いにあり得るのは何故なのか。熱狂し錯乱し狂乱する者の所業は、まさに「ただ存在だけか
らなる秩序」の体で無差別・無軌道・無法則・無秘匿をもって自他を襲うであろう。それはよくわかることだ。存在の悪である。だがしかし、世に瀰漫する大方
の悪は、このような姿をとらぬのではないか。秘匿され逃走する悪は、既にして悪の自覚が、つまりは善を当て込んでいるのではないか。自己保存という存在の
法則に従っているだけだ、と言えぬこともないのだろうが、匿される悪は人間の悪として、善を当て込んだ悪なのではないか。
弱き者の毀損、仁愛という人性の根源を侵犯することを通じて、自己の内存在の拡張を図る、我欲を拡大する、自己を拡大するには、逆に無辜なるものの毀損が最も近道である。弱き他者の毀損を通じてしか、自己を自己として認識できない。人性の根源をが得られないから。
他者不在の自己拡張は矛盾ではある。自己を自己とするには他者が不可欠なのだから。つまり、他者は邪魔者として存在するが、その他者に「顔」がないということなのである。しかし、その他者を邪魔者とする自己は、他者の顔なしで自己足り得たのか。
ついに「透明な存在」という自己観念の幻想から抜け出すことなく、その透明を色あげする他者を発見することがなかった人間の悪。弱き無辜の存在たる他者に向かう人間としての自己発見の冒険が、当の他者たるべき儚く弱き者を「野菜」として毀損する悪業に転落する。その行為は自己をますますもって漂白
し、己れの人としての根拠を失わしめることしかなかった訳だ。エゴの無軌道に見える膨張とは、実は自己の拡がりなぞではなく極小化にすぎぬのだ。
「弱い者いじめが楽しくてしょうがない」とこの少年は日ごろから表明していたといい、「弱い者ならだれでもよかった」と被害者少年の選択理由を語っ
たという。通り魔事件も少年の仕業の可能性が高いようで、被害者は何れも低学年の女児であった。「ボクは殺しが愉快でたまらない」という犯行声明は、確かに異様ではあるが、異様に過ぎて劇画の世界のごとくに現実離れの感覚を呼び起こしてしまう。けれど、彼はそこから現実へと滑り落ちたのもまた事実で、その
安易に見える滑落がこの事件を一層に異様で分かりにくいものにしている。しかし、この異様さ、分かりにくさは、「弱い者いじめが楽しくてしょうがない」と
いう所から、まずは考えてみることができるのではなかろうか。もちろん、いじめと殺人と毀損の間には越えがたい一線があるはずなのだが。
他者の不在、それは人間としての自我、自己の不在なのでもあるのだが、少年にとって被害者の年少児たちは他者でありえたのか。女子高生コンクリー
ト積め殺人の犯人少年達は、四十日あまりにわたって監禁し陵辱した被害者について、欲情といたぶりのサンドバッグの対象として認識する以外、何らの感情も
湧かなかったかのごとき感想を供述したという。 (未完)
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