800 世界・思想

2015年2月24日 (火)

違う見解

「日本人人質事件で日本政府が最初から救出する意図はなく見殺しにし、かれらが無惨な最期を遂げ」たとの言葉に驚愕しています。

ナチスの招聘を言下に拒絶したカタロニアの詩人と同じように、ISの無道非道との交渉の余地など有るはずがありません。
私は、涙すらうかべたというのが本当だとしたら、そのバカ指導者のアホさを嘆くだけです。

欺瞞に欺瞞で応じ、それを欺瞞で解釈する結果でしかないのがこのような言説だと、私には思われるのです。

悪が悪でしか無いのは、その悪が悪である事を自ら欺瞞しているからです。

交渉の余地などあり得なく、見捨てることが善でしか無くなっていることが、悪への戦いである事は自明であろうと思われるのです。

何故なのでしょうか。このようなボタンの掛け違い・・・・

ナチスの欺瞞を考えたことがありますが、彼らの悪がウソでは無く正義であるとして、彼らは何故に自らの身内にさえ欺瞞を強いたのか。

人倫の所以はどこにあるのか、という問い以前、モサドの欺瞞すら幼児的なのでは無いでしようか。

人倫の所以はそのような欺瞞とは無縁であるが故に、不問なのではないかと思われます。

様々な言説は無用としか言えない、そのような欺瞞の連続が、文明の退行としての人類の自然史として想定できますが、そのようなウソさえ「近代的」だと私には思われます。

そのような言説を紡ぐことに何の意味があるのでしょうか。

与那国住民投票は、「地政学的」なせめぎ合いの縮図だと思われ、どちらに属するかに正義はありません。
最後には、パワーバランスというリアルが残るだけでしょう。
善し悪しでは無く・・・・

彼の孤島の旧態の知的エリート諸氏の末裔たる自衛隊派遣反対派のリーダー医師の顔つきは無残でしたが、賛成派の叔父さんの脳天気も辟易でした。

争いの起源、人倫の由来、女性の地位向上と少子化、皆同じ回答を求めている人類史の課題ではないのかな、と考えています。

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2015年1月 9日 (金)

背筋が・・・・

ダブルスタンダード というか「民主主義」「表現の自由」のホントの姿・・・・
核兵器の引き金にさえ、指はかかっている。極めてリアルな感触として。

「表現・報道の自由」「民主主義の危機」といった、建前以前、「おまえの母ちゃんデベソ」との言われっぱなしを許さない、そんな健全に狂った人としての在り方は、有り得えるのではないか。

そんな、相互の「不寛容」が露出しているのではないか。

フランス事情じゃなく、ヨーロッパ、イスラムそして・・・・ なにか嫌な感じです。

何が起こっても不思議ではない、例えば「核のスイッチ」は私が押すんだよ、という滅びと天国とのアマルガム。そんな狂気、理解不能ではありませぬ私は狂っているのでしょうか?

異様な感触で胸騒ぎがしています。

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2015年1月 8日 (木)

Mさんからの返信

ブログ再開のお知らせメールを出したら、わが心の師Mさんから

> これはどうですか?
> http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40227

と、佐々木俊尚という「作家・ジャーナリスト」のインタビュー記事のアドレスが送られてきた。

Mさんの「これどうですか」は用心しないと危ないのです。褒めても、貶しても、その奥というか次というか、そんな謎かけがあったりして、時としてハシゴが外れてしまいかねないのです。

ですが、今回の佐々木俊尚さん、インタビューアーのO女史がいけないのかな。
この人、21世紀の「貧困」出自のプロレタリア作家? 無知じゃなかった苦学生の永山則夫ですか・・・
第一、「作家・ジャーナリスト」の肩書の人物なんぞが大嫌いな私って知っているでしょう、Mさんたら~

『21世紀の資本』を囓って、《21世紀の貧困》を考えてみる必要があると思っていたところでした。

Mさん、これって読む価値ありそうでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20150106

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表現の自由?本当かネ?

悪の独裁国家K国の権力者を、「風刺」し「パロ」った「コメディ」映画とやらに、K国が怒って実力行使をした、と認定したA国は、実力行使の「制裁」報復を発動した。

「表現の自由」や「報道の自由」など、一見「高尚」な観念が振り回されてはいるけれど、そんなに高等な話だろうか。

ただただ、ほんと、単なる下品な「ポルノ」に過ぎない「作品」は、何処で発表・掲示・展示されても、何でも許されるのだろうか。

「エリザベス女王の情事」「ローマ法王の男色」「天皇の下半身」などをテーマに、「パロディ」が企画制作されたとして、それって「許されること」でしょうか。
ましてや、「アラー」を・・・・

と、ここまで頭の中で下書きしていたことが、フランスで実力行使を招いたようです。
(ずっと以前、イスラム関係の研究者だった日本人の大学教員が首を切られて殺された事件がありましたが、犯人はつかまったのだったかな。殺人が「悪」で犯罪なのは、同じ共同性の中に生きている共同体内部でのこと。「悪」だったり「敵」だったりすれば、何でもありで、「ヒーマン」は普遍的ではないのでしたネ)。

なんと、安部さんは、「表現・報道の自由」云々と言った記者会見を早速やったそうですが、よほどの身の程知らずでおバカですね。

現役の政治家を揶揄しパロった「風刺」にしても「限度」はあると思われるし、相手を「悪」と認定したら「何でもあり」と言うのじゃ宗教戦争をやりたがっているとしか言えないのではないかな。

お互いに寛容であるためには、お互いを尊重することが前提で、宗教戦争の教訓はキリスト教徒の間だけで成立する、と考えられているとしたら、本物の異教間の宗教戦争が終わることはないのじゃなかろうか。

ついでに
絶賛のラマラ女史、彼女の危うさって無いのかな、と思っていたらこんな記事。

「タリバーンによる学校襲撃の悲惨な結末:マララへの愚劣なノーベル平和賞授与が生んだ悲劇だ」
http://blog.goo.ne.jp/narmuqym/e/651a6cf10dbd7da8d2b97c5ff9652a30

こんな見方もあるということ。

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2014年12月 6日 (土)

オルテガ (2007/03/25)

ホセ・オルテガ・イ・ガセット( 1883年明治16年~1955年昭和30年 )は、志賀直哉、北一輝、カフカ、ヤスパース、ムッソリーニ、ケインズと同年生まれのスペインの思想家。

ひょんな事からアマゾンの古本で、1970年昭和45年刊オルテガ著作集全8卷を入手。 この本が出た1970年は、大阪万博、日本赤軍よど号ハイジャック事件、全共闘運動の末期、私は高校2年生。
睡眠薬代わりに、毎日10数ページを進んだり後ずさりしながら、やっと第1卷を読み終えた。

スペインよりもポルトガルという国・地方に興味があって、そのポルトガルの歴史などを調べていた中で、オルテガ著作集の古本に出会った。 西部邁の評論などで文明論者として引用されていた覚え。色摩力夫という外交官だった人の『オルテガ』も斜め読みした記憶。

ここで、少しメモ。

  「私は私と私の環境である」 現代の課題 8 生の価値 1923年

生はそれ自身の自由にまかしておくと利己主義的になりがちであると主張されてきたのは、大きな誤謬であった。なぜなら、生はその根底、その本質において明らかに利他主義的であるからである。

生は、利他主義の宇宙的実現であり、生ける自我の他我への永遠の移住としてのみ存在する。

生に意味を与えるものは超越的な価値ではなくして、生におけるおどろくべき寛大さである。この寛大さは、超越的なものとは異なったあるものによってその情熱を燃え立たせる必要がある。

生の本質をなすところの評価さるべきあるものによって点火されるその力は、それらの偉大なもの(注:超越的なもの、科学、芸術、正義)より価値の低いものではないのだということを指摘したいのである。

生は、それを通じて他の事物を見ることのできる透明な媒体、水晶のごときものである。 (生の)価値の第一のものは、類的に見られた生一般 - その方向や内容はどうであれ - に属するものである。

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2014年12月 1日 (月)

不在の抗い神戸の少年の悪 (2006/01/06)

 咄嗟に思いうかんだのは、動物園育ちの類人猿のことである。何事かの不在が、母と子をして母や子として成しえることなく、ただの存在物であるかのごとき 個体として孤立せしめ、次々と関係障害の病理を呈してゆく(森の中の彼らにこのような事柄が皆無であるとも思えないけれど)。それを、人類創世の闇のうち にあったであろうヒトが人となるにあたって突き当たった錯乱ということもできるだろうし、家族の崩壊や伝統文化や歴史の消失という切り口で、成されるもの としての人間と、成すものとしての社会や時代や文化の問題につなげることも可能であろう。生得的な精神病理という見方でさえも、素因(今風に言えば遺伝子 か)と環境の関数としての病理という病因論の公式を外さぬのだとしたら、内因発現に幾ばくかは関わるであろう外因としての環境要因を抹殺するわけにはゆか ぬのであるから、犯罪者個体の内に独立して生起した異常と断定してしまうわけにはいかぬであろう。

 形成するものといい、形成されるものといい、かの少年の身の上で経過した時間の質とその結果が、何事かの不在の抗いとしての異様な悪が、彼にまつわる人間の存在と不在の軋みが問われているように思われる。

 親愛の情つまりは親愛関係の欠如。と、私は動物園育ちの類人猿の病理と同様に、今回の事件の核心をそう断定してしまうのだが、それは、関係の不在 ということでもあろうか(もちろん、「関係の不在」を纏う関係はあるのであり、まさにその不在をまとい装う関係が人間としての「悪」なのだ)。そのような 要約をもって(簡単な要約では済まぬ事柄であることは十分に承知した上で言うのだが)幾多の評論や見解を眺めみると、私には皆が皆、言葉としては半ば同じ ことを言っているような気がして仕方がないのである。学校教育やバーチャルリアリティ云々は枝葉の挿話にすぎない事柄であり、何事かの不在の有様やその形 成を問うことの向こう側に、人間存在の深き根拠をどう見据えるのかが問われているのだ。

 人間というものに抱かれたイメージが根底から損なわれる ようなこの種の事件は、おそらく人類の創世期の闇が明けぬ現れでもあろうが、人類史としての人間の個体史がいつでも創世を内包しているということの証とし て見れば、時代を問わずこの種の事件が起こりうることをも意味している。と同時に、それを全きに阻止しえないにもかかわらず、阻止せんとする人間の人間と しての人類史の黎明をも意味しているのではあるまいか。

 三十年前、イギリスで起きた同様事件を分析した書物を翻訳紹介している林弘子は、子どもによる殺人は少なくはないが、今回のような「動機のない」殺人は非常にまれであるとして、「反社会的人格障害」という考え方を紹介している(西日本新聞七月十日)。

 四歳と三歳の男児を絞殺した犯人、十一歳のマリー・ベルという少女は、

おまえたちはまぬけだ
だってあたしたちがころしたのだマーチン・ブラウ ンを
おまえたちもっと
きをつけろ
またころしがあるぞ
デカやろうへ

というメモを犯行メッセージとして残したという。たえず暴力を振るい、うそをつ き、ハトの首をしめ、ついには幼い子どもたちの首に手をかけた犯人の少女マリーは、まるで「酒鬼薔薇聖斗」である。犯行の奥に潜む「動機」あるいは犯行自体を、「助けをもとめる少女の叫び」であると解釈する著者は、われわれの無理解と無関心と抑圧こそマリーの共犯者であると告発し、マリーのケースは「非常にまれなもの」ではなく、広く普遍的に存在している潜在的な人格障害の問題がもっとも深刻な形で顕在化したケースなのだという。

 ①他人に対する感情の欠如、②衝動的行動、③攻撃的行動、④羞恥心の欠如あるいは良心の呵責の欠如、⑤罪悪感の欠如、⑥悪徳を表明し危害を加えた いという欲求、などと特徴づけられた「反社会的人格障害」という「病名」。それは裏がえせば社会的人格形成不全とも言いうるものであろう。なる程、感情・ 羞恥心・良心・呵責・罪悪感の欠如と、現象を羅列してみればその通りである。

 他者の接触を極度に畏れていた自閉症のドナ・ウイリアムズは、「身も凍るような、泣き叫びたいほどの発作の正体は、このあふれ出した感情だったの だ」と、恋人に触れらて生じた情動のパニックから、〈感情〉という事柄を発見した。感情の本質は、他者へ向かう情動のうねりであり呼びかけである。苦しみ とは、他なる何者かへ向けられる叫びである。喜びとは、良き人へ向けられる語りかけである。叫びといい、呼びかけといい、語りかけといい、他なる者へ向い 向けられ発せられる〈声〉である。

「おかしくもなし独り居の屁」

 誠に他なる者なしに感情は沸き立たぬのである。ところでしかし、〈感情〉は本当にわたしに発し、自己に沸き立つの か。〈感情〉は自己の占有物なのか。〈感情〉は、ドナの内からあふれ出したのか。そうではあるまい、本当は。〈感情〉は、自己に内在しているモノではな い。わたしの外に在り、至り来る事柄なのではないか。他なる者の視線こそが、叫び、呼び、語ることに先立ってあり、それが叫ぶことを可能ならしめる。〈感情〉の起源は、他者の存在、その視線の照射にある。そうだとすると、「他人に対する感情の欠如」といった物言いは、中途半端で根が浅い。〈感情〉の本義は 他なる者の視線であり、その応答として生起する事柄なのだ。

 社会的人格、それはいったい何に由来するのか。この問いが発せられたのかどうか不明なのだが、いったい社会的人格とはどういうことなのか。人間とはいったい何ものであり、何事なのか。ついに「透明な存在」という自己観念の幻想から抜け出すことなく、その透明を色あげする他者を発見することがなかっ た人間の悪。弱き無辜の存在たる他者に向かうべき人間としての自己発見の冒険が、当の他者たるべき儚く弱き者を「野菜」として毀損する悪業に転落する。その行為は自己をますますもって漂白し、おのれの人としての根拠を失わしめることしかなかった訳だ。エゴの無軌道に見える膨張とは、実は自己の拡がりなぞではなく人間としての自己の極小化にすぎぬのだが。自己の人間存在を染色することがなかったこの少年の、その人間をどう考えればよいのであろう。反社会的人 格障害というレッテルは、はたしてこの少年や少女の存在の深き欠落に届き得るか。

 分かりやすい話として言えば、人は人として生まれるのではなく、人に成るのだという言い方で十分に事足りる。決定的な何事かが人として育つべき生育歴において欠落していたとも言いうるのだろう。女性週刊誌などスキャンダル・ジャナーリズムが得意とするこの領域の具体的な探索結果(それで何かが分か るとも言い難いのだが)は少しずつ明らかとなろうが、メジャーなメディアは、糞真面目に社会化すること、社会と時代の病理として「わたしたち」の問題とす ること(集合形の呼びかけが集合的であればあるほどに、逆説的に各要素たる個に届くことがないように、決して「わたし」個々に負わされることのない問題と してしか「問題」足りうることがない)に終始しているように見受けられる。それは、先のイギリスの識者の「普遍的に存在している潜在的な人格障害の問題」 という言い方の「普遍的」ということの敷衍でもあり、「われわれの無理解と無関心と抑圧こそ共犯者」なのだという時の「われわれ」という立場の反省意識な のでもあろう。

 こういった真面目な面々は、「非常にまれなもの」をまれではないと言い募る。「わたしたち」の問題、「社会」の問題と言い募ればつのるほどに、〈われわれ〉と〈社会〉は虚ろに遠ざかってしまう逆説ゆえに、私は「理解を示さない仕方こそが、真に理解に達する道である」という逆説を対 置してみたくなる。それは、この場合、この事件の本質を社会と時代に還元せず、〈人間〉の問題として考え尽くすことであり、当事者たる子どもや親にすり寄 らず共感してみせないということでもある。堂々とした教説が陥る倒錯が、人間存在の深き根拠を漂白しないためにも、それは必要な手続きではあるまいか。

 わたしは何故にわたしであり、あなたではないのか。私が、他の誰でもないわたしであるというのはどういうことなのか。肉体という革袋に隔てられ、モノとして在るわたしの固有性。ここに在ることによって、そこに在ることがかなわぬという個体性の自明。その自明性が、感じ、考え、意識し、思念する自己 を、モノとしてのわたしに内在する「内面」として、わたしという存在物に帰属し占有される「自我」として演繹する。

 わたしのからだは私の体であ り、あなたの体ではないことが自明だとして、私の体を意識し、あなたの体を感じ、あなたに向かい思ふ、つまりはわたしという自己意識は、私という存在物に 内在し、私が占有するモノなのか。わたしは私であり、私のものであるという時の私、私のものであると思考するわたし、それは何者なのか。内存在の「自我」、それは神話ではないのか。

 自他を隔てる革袋を隔壁として意識するわたしは自なのか他なのか。隔壁を隔たりとして感じる自は既にして自にあ らざるものである。自足する自に壁は存在しない。自に至り来る他こそが、自をして革袋を意識せしめるのではないのか。他によって自は自たり得る。他によっ てしか自は自として勃起することはない。自他未生という有り様は、自他を統べ、存在を統一するという意味での「神」にまつわる神話である。宇宙の果てまで 飛翔し、存在と一体となるといった超越や無についての修行や思念は、実は自我や我執からの離脱を図る我欲の現れとしての自我の極大化であり、人間としての 自己の極小化を意味する自我神話の一形態である。革袋の消失を意味するお伽話である。自我神話の神は、〈神〉にあらざる我欲の結晶である。〈神〉は何者か としてあるのではなく、事柄として関係として自我という存在を襲い打ち壊し、人間という自己を勃起せしめる何事かとしてある。

 自我神話の世界に他者のいる余地はない。その神とは我欲そのものなのだから。我欲は人間に在らざる存在である。隔壁なき存在、全体であり無である存在それ自体。「透明な存在」とはそういった意味ではなんと適切な表現であることか。それは、〈神〉と人間の不在である。自我神話の神を信奉する者、それ を近代人だとすると、件の神戸の少年は自我神話の神のもとにある立派な近代人、近代人の鑑であろうか。そこに善も悪もない、かのような神話として自我は極められた。

 ところが、神話が神話である所以は、隔壁なき存在であるはずの我欲的自我にとって、隔壁がなくなることがついにありえぬからである。 熱狂と錯乱のうちには隔壁はない。それは悪としての悪であり、存在としての悪である。それは青天白日の元にあり、秘匿されることのない、隠されることのな い悪である。青天白日はおのれ自身なのであり、秘匿すべき他はありえぬのだから。熱狂と錯乱のうちには、神話の居場所はない。秘匿される悪、それは存在と しての悪とは違うものだ。やはり人間としての悪業なのだ。肥大する自我といい、極大化する我執といいながら、やはり善なる他者を当て込んでいるのである。 自我神話は、内在する我欲としての自己の極大化を、他者の不在を、「関係の不在」をまとってはいる。しかし、不在を纏いながら秘匿せんとする関係はあるの であり、まさにその不在をまとい装い秘匿せんとする「関係」こそが人間としての「悪」の由来ではないのか。神話の内では、不在は不在として、何者にも、何 事にも抗うことなく唯在るだけである。しかし、神話にあらざるこの世では、実は不在をまとい装う関係として「不在の抗い」を装いながら人間の悪となるの だ。

・・・・ 他者への責任のうちには、人間性を構成する記憶可能ないかなる決定よりも古き拘束のごときものがある ということです。他者に目覚めないことの可能性が人間のうちにあることは明白です。悪の可能性があるのです。悪、それはただ存在だけからなる秩序です。逆に、他人へと向かうことは、存在のうちに人間がうがった突破口であり、「存在するとは別の仕方で」なのです。

・・・・ 聖潔という理想(引用者注:他人の優 先権を認めうるという人間の可能性。人間とは聖潔が異論の余地のないものであることを認めた者だ・・・・)は、人間が存在のうちに導入したものなのです。 聖潔という理想は存在の諸法則に反するものです。

・・・・均衡を取り戻すこと。これが存在の法則です。病もなく例外もなく無秩序もない、それが存在の秩序 です。
               (E・レヴィナス『哲学、正義、愛』)

「神は存在である」という巷間に通用している伝統的な神-実在論を覆し、神は存在の彼方であり、「存在するとは別の仕方で」ある、「神は他者のうちに真に現前 している」、「他者の〈顔〉のうちで私は神の〈言葉〉を聞く」、などと聞き慣れない言葉遣いで〈神〉を語るレヴィナス。私たちの神仏の伝統からすると、本 当のところはよく分からぬのだが、「なにものか」ではない、他者との関係のうちにあるとGodされる〈神〉ならば少しはわかりそうだ。〈神〉は白人種の専 売ではないのだから。わたしたちにも慈愛慈悲もあれば、仁もある。惻隠だってあるのだ。神というかたちに就き憑かれない倫理的関係としての愛や仁や惻隠 は、超越する統一体として神の存在を説く者たちの虚無に風穴を開ける。愛や仁や惻隠こそが、人間の文明の取り柄、起源でありはじまりなのだ。

 そのレヴィナスは、「他者に目覚めないこと」「ただ存在だけからなる秩序」と悪を規定する。悪とは何事か。存在の法則に従う秩序。それを存在としての悪とすれば、その悪は存在の法則に無秩序をもたらすものとしての人間にとっては、無差別・無軌道・無法則な事柄であるはずだ。つまり、ただ存在の法則 だけからなる秩序は、人間にとっては無秩序なのであり、逆に人間にとっての秩序は存在の秩序を乱し無秩序をもたらす。

 では、存在の法則がなす秩序としての悪が、無差別・無軌道・無法則・無秘匿ではないことが大いにあり得るのは何故なのか。熱狂し錯乱し狂乱する者の所業は、まさに「ただ存在だけか らなる秩序」の体で無差別・無軌道・無法則・無秘匿をもって自他を襲うであろう。それはよくわかることだ。存在の悪である。だがしかし、世に瀰漫する大方 の悪は、このような姿をとらぬのではないか。秘匿され逃走する悪は、既にして悪の自覚が、つまりは善を当て込んでいるのではないか。自己保存という存在の 法則に従っているだけだ、と言えぬこともないのだろうが、匿される悪は人間の悪として、善を当て込んだ悪なのではないか。

 弱き者の毀損、仁愛という人性の根源を侵犯することを通じて、自己の内存在の拡張を図る、我欲を拡大する、自己を拡大するには、逆に無辜なるものの毀損が最も近道である。弱き他者の毀損を通じてしか、自己を自己として認識できない。人性の根源をが得られないから。

 他者不在の自己拡張は矛盾ではある。自己を自己とするには他者が不可欠なのだから。つまり、他者は邪魔者として存在するが、その他者に「顔」がないということなのである。しかし、その他者を邪魔者とする自己は、他者の顔なしで自己足り得たのか。

 ついに「透明な存在」という自己観念の幻想から抜け出すことなく、その透明を色あげする他者を発見することがなかった人間の悪。弱き無辜の存在たる他者に向かう人間としての自己発見の冒険が、当の他者たるべき儚く弱き者を「野菜」として毀損する悪業に転落する。その行為は自己をますますもって漂白 し、己れの人としての根拠を失わしめることしかなかった訳だ。エゴの無軌道に見える膨張とは、実は自己の拡がりなぞではなく極小化にすぎぬのだ。

「弱い者いじめが楽しくてしょうがない」とこの少年は日ごろから表明していたといい、「弱い者ならだれでもよかった」と被害者少年の選択理由を語っ たという。通り魔事件も少年の仕業の可能性が高いようで、被害者は何れも低学年の女児であった。「ボクは殺しが愉快でたまらない」という犯行声明は、確かに異様ではあるが、異様に過ぎて劇画の世界のごとくに現実離れの感覚を呼び起こしてしまう。けれど、彼はそこから現実へと滑り落ちたのもまた事実で、その 安易に見える滑落がこの事件を一層に異様で分かりにくいものにしている。しかし、この異様さ、分かりにくさは、「弱い者いじめが楽しくてしょうがない」と いう所から、まずは考えてみることができるのではなかろうか。もちろん、いじめと殺人と毀損の間には越えがたい一線があるはずなのだが。

 他者の不在、それは人間としての自我、自己の不在なのでもあるのだが、少年にとって被害者の年少児たちは他者でありえたのか。女子高生コンクリー ト積め殺人の犯人少年達は、四十日あまりにわたって監禁し陵辱した被害者について、欲情といたぶりのサンドバッグの対象として認識する以外、何らの感情も 湧かなかったかのごとき感想を供述したという。 (未完)

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考える人の虚ろひ 池田晶子の孤独メモ ((2006/01/06)

ヨーロッパのブランドにさしたる関心もなく、 当然のことながら知識教養もないのだが、M氏に勧められてレヴィナス『われわれのあいだで』他二冊を読んだ。読んでいる。

「読む方もひどく息切れがする、不自然な姿勢の持続に窒息しそうになる」と、へーゲル哲学の難所を晦渋な言語表現の煙幕として透視する池田晶子がそう表現する。へーゲルを読んだことがないので分からないのだが、へーゲル前後の西洋哲学については「端的な確信ひとつ手に煙幕の中を進め!」と曰う池田が、「これは、理論ではない、何か祈りに似たものだ。」とレヴィナスを辛評する。まあ、そのレヴィナスが「言説の本質は祈りである。」と言つているのだから正鵠を 得ているのかも知れぬが。

確信と言うほどの手がかりはないのだが、三度四度とレヴイナスの声に耳を傾ける。なかなか辛抱のいる読書ではあるが、〈気分〉は通じるような。強固な一神教の伝統のうちにユダヤ人レヴィナスもいるはずであるが、池田の口伝による同じくユダヤ人スピノザの汎神論と共に、われ われの「東洋」にも一脈通じるょうなそんな〈気分〉を手がかりにして、再度レヴイナスに向かってメモをとる。

メモをとりながら、池田のレヴィナス辛評の不自然、ぎこちなさが気になってくる。西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」とやらを華厳経に関違づけ、「すべてがわたしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおのなかのすべて」と詩人の特権でさらりと言つてのける宮澤賢治のある種の気質的素質に言及する池田が、「私が私であるとき、私はきみである」ことを繰り返し語るレヴィナスに、「これは理論ではない、何か祈りに似たものだ。いや、祈りという心のかたちを私たちがもっという、その一点にのみ賭けられた祈りと言うべきか」として、理によって矛盾を突き、「存在」との孤独な闘いをTokyocityで「ぎりぎりの、独りきりの実践として」生きていると語る。もはや疑うことさえ信じてはいない、ということを信じている者が、信じるということの基点と極北にこそ「祈り」は位置するであろうことを分からぬはずはないのだろうから、「祈りという心のかたちを私たちがもっという、その一点にのみ賭けられた祈り」 の精確な意味を掴んでいぬはずはない。

 何に、何処に池田はレヴイナスを誤読したがっているのか。撞着でしかないはずの「共生の倫理」が不可能だなどとは、理に優り理に溺れる者の物言いでしかなかろう。何故にそこで理に走り逃れるのか。

 口伝という文体で西洋哲学の核心をバサバサと解きながら、思わず知らず地声が見え隠れする。そのような印象で一読。思想や哲学やを職業してしま う学者や文化人を一刀両断する小気味よさ、そんな怪傑ぶりにお江戸の粋人の倦怠と厭世を感じて再読。さらに、理に優る理、理を超える理、信に優る信、信を 超える信、そのような何ものかを地平に見ながら引き返して<る姿を見て何故、と三読。

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2014年10月19日 (日)

主権と連邦 (2001/11/19)

アフガン戦争も終息しつつあるようで、大方の見方は「以外と崩壊が早かった」というところのようである。官軍の勢いの前で、雪崩れうったような勝ち組入りと、バスからの途中下車組の存在は、イスラム・アフガン世界も、やっばり似たり寄つたりの人間社会だったということなのだろう(本当は、この戦後こそが難儀なはず)。

かの大戦のおりも、アメリカでは野球に興じ、日々敵を追いつめてい戦況を、今度のような実況まではなくとも詳細に報道しており、人々は例えばいま私がテレビや新聞でアフガンの戦況などを見聞きするように、日本との戦いに興味を示していたのだろうなと思われる(身内が戦つている人はもちろん違ったであろうが)。

ビンラディンの人徳が足りなかったのか、アラブ=イスラムということでなかったのか、西南の役ほどの拡がりは得られず、結果としては佐賀の乱どまりで薩長アメリカ「新政府」の前では無力であった。西郷さんほどの「減びの美学」があったらとは野次馬的だが、パレスチナ国が夢のまた夢とでもなれば、本当は「減びの虚無」の真実性が逆にリアルになってきているとはいえまいか。全てを道連れに滅びることを至上とするテロの安全装置は外され、引き金に手がかかっているのではないかと妄想してしまう。

いわば緩い連邦制にあった江戸日本は、藩と武士の「主権」を新政府に委譲した連邦、明治日本になったなどと素人考えをしていると、南北戦争によって連邦としての合衆国アメリカが成立したこともなるほどと思つてしまう。個人の武器所有という「カウ ボーイの主権」まではとりあげていないところが、偉大な島国たるアメリカの真骨頂なのだろうが。

薩長アメリカの主導の元に、「国民国家の主権」 はなし崩しとなり、「国際合意」の元に統合された。もちろん錦の御旗・大義名分は十二分にある。五三番目か五四番目かの飛び地の州が日本であったりアフガ ンであったりパレスチナであったりする、ことはないのけれどもそれでも「いじゃん。外交、国防、中央銀行は「民主的」に選出された大続領に率いられる中央 政府にお任せして、州法の自治範囲で内政がうまく行けば。そうなると法の下にダブルスタンダードはなしの公平平等が建前となって、民族浄化まがいの入植政策もとれなくなってしまうれど。

権力の本質は暴力ではなく「合意」であって、合意形成を優先するわれわれの風土の先進性も本当はもっと理解されてよいのかも知れない。むき出しの暴力もあれば王様の妥協もあるということも身をもって学習される機会でもあったのだろうが、大いなる島国が妥協と合意の道を歩み出すには、もっと波乱を必要としているのかも知れない。

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2014年10月 3日 (金)

東洋とアラブ (2001/11/03)

アジア諸国では、広島・長崎は当然の報いといった印象なのが、東南アジアのイスラム社会を除いた中東イスラム圏では強い同情の対象となっているという不思議は、欧米白人の文明に蹂躙され圧倒され続けている彼らの心情からすれば当然なのか。
「広島・長崎の報復を果たせて溜飲が下がっただろう」とエジプトの街頭インタビューで語つていたオジサンは、9.11WTCテロをそう評価していた。
私たちが忘れてしまっている日露戦争と大日本帝国の世界史的意味の亡霊が生きている場所がある。

彼らとは違う世界を生きてきたはずの私たちの周りにも、心の中で「ザマ一みろ」と喝采をあげた人がいる、とも言う。彼らは、アラブ・パレスチナへの心情的シンパシーとは違つた次元で反応していると陰で語っているらしい。本当かな。

「風とライオン」でショーン・コネリ-が演じていたアラブの一部族長の示したプライドは、イングランドにやられたスコツトランド人コネリーのプライドであるが、そんな部族的プライドが戦争と暴力の源にあるというのは本当だろうか。

江戸中期、我々の祖先は「シナ」の文化・文明から独立すべく「国学・和」のプライドを見つけだし、欧米-西洋と対峙した時に「東洋」というプライドをつくりあげ、大東亜の戦でそれは粉々に砕かれた。「東洋」は、日本でだけしか通用しない文明概念として死語となった。

イスラムは一種のグローバリズムであるらしい。そこに統合されている部族的集合も複雑多岐であって、アラブ、トルコ、ぺルシャの大集合はそれぞれにヨー ロッパを睥睨凌駕した世界帝国の時代を持つている「名門・名家」であった。
ヨーロッパは田舎者、イギリス、口シアに至つては「ど」がつく田舎者、というこ とになる。
現代の米国的グローバリズムに没落名家プライドが反応してしまうということはないだろうか(中国と朝鮮の日本観の根底にも少し似たところがあり そうで、親子の子、兄弟の末弟の田舎者と、侮つてみたい旧名門的プライドがありはしないか)。

古代ローマ・ギリシャへの憧憬が中世イタリアの、 イタリアへの憧憬がドイツの、ドイツへの憧憬がロシア-スラブの、大陸への憧憬がイギリスの、ヨーロッパへの憧憬がアメリカの文化形成の原動力になった、みたいな単純化された継承関係を想定すれば、中世イタリアが憧れた古代ローマ・ギリシャは当時のアラブ世界そのものであったらしい。

不思議なことに、カルチャーとサブカルチャーの関係を考えれば上述の継承関係が逆転したりするらしいから、プライド形成のダイナミズムはやっかいなことだ。

そこで問題なのは、人が部族的プライドをどうしても欲しがってしまうことにありはしないだろうか(もちろん、部族的に止まらず個たる自己にまでそれは微分されてしまうことでもあるが)。

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