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2014年12月

2014年12月27日 (土)

ブログに再挑戦!

もう3年もホームページを更新していなかった。

毎年の年始めには再開を期していたが・・・そのまま放置。

11年も前に「経絡原型論」を試行したのに・・・・それっきり。

で、ブログで元のページを再編しようと思ったのでした。

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2014年12月10日 (水)

体温調節の比較生理(入来正躬1980)

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図1.体温調節機構のブロック図案      

  • 変温・外熱性動物の体内温も、恒温・内熱性動物と同様に一定の基準値に調節されている
  • 恒温・内熱性動物でも変温・外熱性動物でも体温調節機構の基本的なパターンに本質的な差はない
  • 心・血管系の反応は、恒温・内熱性動物と変温・外熱性動物で共通してみられる唯一の自律性反応である
  • 熱放散は、発汗、あえぎと共に、皮膚血管の収縮・拡張によりおこる皮膚温の低下・上昇によって調節される
  • 恒温・内熱性動物では寒冷刺激により皮膚血管は収縮して皮膚温が低下し、熱刺激により皮膚血管は拡張して皮膚温が上昇する。陸棲のは虫類でも同様に温刺激で皮膚血管は拡張し、冷刺激で皮膚血管が収縮する

表1.Endotherms哺乳類・鳥類とEctothermsは虫類・魚類の体温調節機序の特徴

体温調節系 恒温→内熱 変温→外熱
動 物 種 哺乳類 鳥類 爬虫類 魚類
 行動性調節
 自律性調節  産熱化学機序 代謝レベル
 ふるえ
 褐色脂肪
放熱物理機序  血管運動
 立毛
 発汗・蒸散 
 温度受容系(器)  皮膚
 脊髄
 視床
 温度調節系  神経

水棲動物である魚類でも同様に皮膚血流の温刺激による増加、冷刺激による低下がみられる。脊髄を選択的に加温・加冷すると皮膚血流は増加・減少する。
皮膚血管の温度刺激に対する反応は、恒温・内熱性動物でも変温・外熱性動物でもすべて同一方向である。
      
「水中に棲息する魚類にみられる皮膚血流の生理的意義については今後引き続き検討していき」 と記したこの入来らの研究対象の魚類が、いわゆる硬骨魚類であって、サメやエイなどの軟骨魚類でないことに注意。
軟骨魚類の体温調節機構、特に皮膚血管機能が知りたいところ。
      
デボン紀から石炭-二畳紀に起こったヴァリスカン造山運動の一億年の間、水陸両棲の生活を強いられ「上陸」の一歩手前で海に引き返した硬骨魚類の祖先たち が、水中とは違って寒暖差が大きな陸地の大気に曝された「体験」を経た証拠が、彼らの子孫たる魚類(硬骨類)の皮膚血管の振る舞いに残されているのではな いか。浮き袋が、空気呼吸体験の「入れ墨」であるように。
そしてこの皮膚機能は、サメなどが棲息できにくい寒冷帯の海でも生き抜く術を彼らに与えたということではないのだろうか。
  • 温度刺激による心血管の反応と、これを支配する交感神経系の反応は統一的ではなく、非均一性地域性反応が惹起される。
  • 一般に体表部と対内部では血流および交感神経活動性の反応が逆方向となる。即ち温刺激では皮膚血流が増加し、皮膚交感神経活動性が抑制されるのに対し、体内部の血流は減少し、内臓・心交感神経活動性は増加する。冷刺激では逆の反応が起こる。
三木成夫の「上陸の形象」「ニワトリの四日目」「内臓循環と体壁循環が不倶戴天の間柄」の項とピタリと照合!
温度馴化機能の高度化が生物種の「寒冷期進化」であり、四季昼夜と(海中と比べ)大きく温度変化する大気中に暮らす動物たちのこの温度馴化の統合機能を「経絡(狭義)」として捉えうること。
非均一性地域性反応こそが、経絡経穴の特異的反応性の根拠となりうること。    
  • 変温・外熱性動物の自律性温度調節系としては現在のところ血管調節のみが存在するものとされており、体温調節における血管調節系のモデルとして有用な可能性をもっている。
経絡(狭義)についての基礎的生理学な研究は、カエルなどの両棲類が最適かもしれないということ。金魚の経絡治療は、奇をてらうものではなかった!のかも知れない。

( 2003/03/25 )


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腸管論からみた蔵象経絡

◆経絡の起源
系統発生:
脊椎動物の上陸の過程(古生代中期カレドニア造山運動の1億年の間)で、水中から大気中という激しい温度変化に対応する機構として、内臓循環と体壁循環は巧妙な相反性調節により自律的な体温調節機構を獲得したのではないか。

個体発生:
ヒトでは受精後32日~38日、ニワトリでは3.5日~4.5日の間に「上陸劇の再演」が演じられる。つまり、この時期は、胎児の循環統合系に劇的な変化が起こり、アクシデントが起こりやすい不安定な期間となる。 (三木成夫「不倶戴天の間柄」)。

◆腸管論 植物系の原器:
全ての内部臓器・器官組織は、腸管の派生物である。 動物系の意味:体壁は、腸管を包み保護し、運ぶ、腸管の下僕であった。

( 2003/03/24 )

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治療の政治学

 中井久夫は、個性的で優れた精神科医がいわゆる人文全般の達人であるの例に漏れず、専門分野からギリシャ詩の翻訳まで非常に幅広い多くの著作を成している。ウイルス学を出発として精神科の臨床医となり、舶来の体系や権威にすり寄ることもなく、また、東洋観念に和合することもなく自らの感性で道を拓いてこられた。

 例えば、統合失調症患者の過剰とも言える感受性を「心のうぶ毛」という言葉で表すのは、医学者である前に、病むことの可能性のうちにある一人の人 間(おそらく気質的には、心を病むことに非常に親和性が高いのかも知れない)として「心を病む」ことをつきつめた者のオリジナルな洞察力があればこそであ ろう。教養あるいは知の収集家たる大正教養人の末裔を思わせる中井のエッセイは、教養の深さは言うに及ばす、治療(家)の本質を考える上でも多くの示唆に 富んでいる。

 ・・・内分泌系も自律神経系も、免疫系と同じく「高度に政治的な」行動システムを持っている。これらの間をいそがしく調節しているのが、どうやら脳らしい。

 このような政治的システムが完備するのは、硬骨魚類からであるらしい。ふつうのお魚とサメやエイの諸君との間には深くて暗い溝がある。こちらでは急にすべてが単純になる。これも連絡者としての脳の問題だろう。

 われわれの治療は、多く、この身体の政治学的状況にわずかばかりの変更を加えようとするものであった。ちょっと皿を傾けるほどの介入であったかもしれぬ。

 治療においては、病気の側にも一種の疑似政治学がある。治療は、治療に伴う反作用を避けつつ、基本的には、病との絶えざる妥協であり、その妥協の結果、病を最善の形で経過させることが治療の政治学である。

 治療には士気の維持が大きな要素である。治療においても同様である。特に慢性の病において。  治療の政治学においても、古代ギリシャのごとく、テュラノス(僭主)やデマゴース(扇動政治家)が横行しがちである。(中略)しばしば現状維持が最良の選択である。

 しかし、政治学なしですませることができるか。いささか平凡な結論であるが、目的と価値とを以て現実と相渉ることが治療である限り、治療は政治学 なしでに済むまい。薬といえども、それの働きに「賛成」する心の準備なしで強制的に飲ませられるのと、「賛成」して飲むのとでは、必要量も、薬効も大いに 相違する。そもそも政治学なしに病人の口まで持っていけるか。

 現実と相渉る学としての政治学は、徴候を読む知である。三日前の足跡を読む。このような知に市民権を与えたのは、カルロ・ギンズブルグであり(『神話・寓話・徴候』)、やや遅れて中村雄二郎である。シャーロック・ホームズの学である。

 しかし、徴候解読は読み損なうと妄想に近づく。政治学は絶えず固定観念を外へとくみ出さなければなず、この点からも、体系にはならないという結論になろう。
    治療の政治学 『 家族の深淵 』 みすず書房

  引用が長くなってしまったが、ここで取り上げたかったのは、内分泌系も自律神経系も、免疫系と同じく「高度に政治的な」行動システムであり、この政治的シ ステムが完備するのは、硬骨魚類からである、という部分だった。ただ、この「政治学」についての短い警句に含まれている叡智は、治療家たる我々にも共通し た必須事項と考えられ、ここに紹介しておくのも意味があろうと思われる。

 政治学とは、徴候を読む知であり、現実と相渉る学である。生きて社会生活を行いつつ病む人は、実験室で生かされている動物でないことはもちろん、 理論的に再構成される生化学的な物質過程でもない。人の現実とは、森羅万象であり総体であり全体である。複雑な生態系としての人の現実と相渉る術、それが 「高度な政治学」なのだろう。
 許されざる怠慢と許される危険のバランス、という政治学もある。

 わずか な副作用を恐れ、マスコミを信じ、代替療法・民間療法にはしるというのは、巨大なリスクを背負う。利益はそれに比べてほとんど得られない(肺ガン治療薬イ レッサへのバッシングに対して)。  完全なワクチンなどどこにもない。インフルエンザ死3200人の方にはいる確率が高いか、ワクチン副作用3.5人に入る確率が高いか。出荷本数に対する 死亡副作用はきわめて低い。 現実世界では危険性を天秤にかけ、どちらを取るかしかない。
    ( 世界標準の科学的医療の普及を唱える内科開業医 )

 確率論で語られる安全と危険、これも冷徹な現実政治学であり、はやりのEBM=エビデンスに基づく標準治療が目指す治療の政治学であろう。 

もっと矮小な政治学もある。大学病院財政を支援するための診療報酬の特例。経済的動機に基づく投薬や検査などへの寛容。

 病院から検査を増やすよう指示され、大量の薬や、しなくてもいい検査をしている自分に嫌悪する(税金で医療費がまかなわれている生活保護などでは特に)。ただ、医療関係者だって食べていかなくてはならない。
     (ある内科勤務医のつぶやき)

 これも現実政治学であるには違いない。
  では本物の政治はというと、例えば、様々な集団の利害と感情の錯綜するアメリカの国内政治、中東を巡る国際政治の困難を例にとるまでもなく、現実政治は介 入と妥協と傍観の難しい綱渡りである。そこでは、特効薬もワクチンも外科手術も非常に限定的な役割しかない。徴候を読む知が妄想となり固定観念となると、 冷徹な現実はしっぺ返しに重篤な障害を用意している訳で、ここで経験論は経験的確率ではなく冷徹な現実の壁、先験的な確率(つまりは五分五分の)によって 修正される。それが現実の政治ではある。
 イラク戦争によって死亡する米兵の数は、第二第三の貿易センタービルテロで死ぬはずの米国国民の数を下 回るはず、といった確率論などはもちろん主張されもしないし通用もしない(もっとも、広島や長崎への原爆投下は、本土上陸作戦によって失われるであろう米 兵の数を激減させる「効果」があるとの簡単な計算から導かれ正当化されたろうし、今でも支持されている死者の値段に差をつける論理である)。
 社 会の回復、統治秩序の成立がいかに困難かは、やはり社会自体も生態系であって、容易な介入が錯綜を増幅し社会成立を妨げることがありうることを示すもので ある。秩序の崩壊は早々とめざましく、その回復は遅々として目立たない(これは、内部秩序の崩壊もしくは不均衡に擬せられる慢性病の回復過程についてもあ てはまる経過である)。もちろん、イラク戦争の是非を問うているわけではない。

 人の社会もヒトの身体もやはり一種の生態系だから、介入と妥協と傍観の政治学が必要なのである。だから「医原病―医療信仰が病気をつくりだしてい る」や「医療が病いをつくる」などと病院化社会文明を批判するのは、科学的医療が喧伝される程に幻想化が進むことへのカウンターとして、つまりは政治には 対立勢力が不可欠であるという点からしても意味があることだろう。

 精神科医療に限らず、病い、特に慢性病や生活習慣病などすべからく心 身相関病である病いには、最小限の介入と妥協によって最善の形で経過させることが、治療の政治学であることは論を待たない。徴候を読む知である治療の政治 学からすると、確率論に依存することも矮小な現実に妥協することも党派政治レベルの話でしかないだろう。
 読み損なうと妄想に近づく徴候の知を絶えず固定観念の外へとくみ出し、体系ではない治療の政治学を手にするためには、権威や統計を疑い、自分の目と手、自らの感性を頼りに自分の言葉で考えるシャーロック・ホームズの学が必要なのだ。
(患者の声調も顔色も伺わず、検査結果を示すディスプレイから目を離さずまともな対面もせず、脈も取らず、科学的医療の信念の元に下される診断と指示に、徴候の知はあるのだろうか。)

 さて前置きが長くなった。これから本題である。
 動物とりわけ脊椎動物の自律神経系-内分泌系-免疫系は、「高度に政治的な」行動システムとして統御されており、この高度システムが完備するのは硬骨魚からである。サメやエイなどの軟骨魚類と硬骨魚類との間には深くて暗い溝がある(歳がわかるね!)。

  サメの研究書を読むと(もちろん著者はサメファンであろう。『サメの自然史』谷内透)、サメ類もまた高度システムを持っていることが解る。たまたま陸を目 指さなかった古代魚類の子孫の一系統は、深海で宿敵頭足類の攻撃から身を隠して出番を待ち、次第に海に完璧に適応していった。彼らは、卵胎生を獲得し、グ ループ狩り(つまり高度の情報処理能力を持ち)すら行い、海の食物連鎖の頂点の一角を成すに至った。上陸を考えも、トライもしなかったサメ類は、古代魚類 の正統を受け継ぐ海の王者なのである(三木茂夫)。

 サメ類にも、内臓はもちろん自律神経系も立派な脳もある。ある種の肉食性のサメは高 速で泳ぎ、奇網という血管網を持つことで水温より高い体温を維持できるらしい(つまり冷血とは限らぬ訳だ)。奇網システムは、哺乳類では末端の動静脈吻合 と体肢の伴行と表在の二系統の静脈系によって構成される対抗流熱交換機構(ヒートポンプ)として、その恒温性の維持機構の一翼を担っている(この機能が経 脈の実体の一部である可能性がある)。また、マグロやカツオなどの赤身の大型魚類(硬骨魚)も、その筋肉中には奇網システムを備えており、変温冷血の魚類 にはふさわしくない内熱温血の恒温性を部分的に獲得している(だから、トロは霜降り肉と同じ食味だし、シーチキンはまさしく海の鶏なのである)。

 「高度に政治的な」行動システム(自律神経系-内分泌系-免疫系)を完備した硬骨魚と、サメやエイなどの軟骨魚類の間にある暗くて深い溝とは、主に体壁と内臓の血管系の統御のシステムとして考えることができる。それは、体温調節の仕組みといってもよいだろう。

 海の王者サメ類の生息域は、主に夏の温帯までで、亜寒帯・寒帯では生きてゆけない。そこは硬骨魚類の独壇場であり、食物連鎖の頂点は海棲哺乳類のシャチや鯨の仲間などが占めることとなる。
 硬骨魚類と軟骨魚類の差は、もちろん脊椎を初めとした骨構造の質の差であるし、うきぶくろの有無であるし、腎臓や脾臓の独立である。
 地質年代デボン紀(4.1億~3.6億年前)、約1億年間続いたカレドニア造山運動と呼ばれる地殻変動の時代の太古の浅海で、汽水域に進出した古代魚類の一グループは、「進か、退くか、そこには一億年になんなんとする逡巡の日々」(三木成夫)を過ごし、骨質を変化させ、腸管の一部を空気呼吸器官とし、浸透圧調節のために腎臓を完全独立させた。骨質の変化は、造血巣としての骨髄腔を準備し、造血器(免疫器官)としての脾臓を腸管周囲から独立させた。
 そして最も注目に値するのは、大きな外界環境温度の変動に対処する「高度に政治的な」行動システムである体温調節系の実行器官として自律神経=血管調節を行う交感神経系を完備し鍛錬したことであろう。

  水の比熱を1とすると、土は0.25、空気は0.24。海と河川と沿岸陸地と内陸地、それぞれの昼と夜、夏と冬の温度変化がどれほどあるだろう。比熱も大 きく熱容量も大きく温度変化が極めて少ない海中と、熱しやすく冷めやすい大気と大地の温度変化の大きな陸地。昼夜で10度以上、夏冬で30度以上の大きな 温度変化のもとにある陸地で、生物が耐ぬくために必要な「高度に政治的な」システム(当然のことながら湿度=乾燥への対処もそれに劣らぬ重要素である が)、この大きな外界環境温度の変動に対処する「高度に政治的な」行動システム、つまり体温調節に関わる統御系の有無が、お魚とサメやエイの諸君との間の 深くて暗い溝なのである。

 逆に、最も温度変化が少ない環境は深海であり、この安定した温度環境に適応した生物は、生きた化石と呼ばれる ように太古の昔から「進化」の必要がなかったらしい(サメ類の祖先もここで待機していたらしい)。  もっとも、三木茂夫の衣鉢を継ぎ実験進化学を提唱される西成克成先生は、ある種のサメの陸揚げ実験を行い、血圧上昇や腸管による空気呼吸の出現を見たと いう。血圧上昇は、水中浮力による1/6Gから大気中の1Gのみかけ上の重力負荷に身体組織が曝されることに対抗するための生物反応であり、それには体壁 血管系を収縮させる実施と調節の系列が必要不可欠なのである。つまり、ある種のサメ君にも血管収縮神経=交感神経系が準備されていたと考えるべきなのであ る。

( 2004/02/02 )

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上陸前夜

◆原始魚類の進退条件
古生代および中生代の気候は、主に化石から推定されている。それによると、シルル紀(4.4億~4.1億年前)からデボン紀(4.1億~3.6億年前)にかけての気候が少しわかっており、古生代の大半は両極で氷がなく、今日より温暖であったらしい。

シルル紀には、オゾン層が出来て紫外線が遮られるようになり、大気中の酸素はほぼ現在の10分の1程度の割合になったという。緑藻類から進化した植物の上陸が始まった。陸上では光と酸素は十分だが、水不足と大きな温度変化にさらされるため、陸生の植物は陸上で植物体を支え、水を運ぶための維管束を発達させた。土壌の形成も進んで、デボン紀初めまでには、多数の陸生植物が地上で繁殖した。デボン紀に入ると、維管束植物類は大発展し、特に湿地に木生シダの森林をつくったという。

シルル紀~デボン紀にカレドニア造山運動と呼ばれる、約1億年間続いた大規模な地殻変動が起こっている。カレドニア造山運動は、陸地を拡大させた。海退が進み(浅海域の拡大)、気候は不安定になった。巨大な河川が出現し、広大な河口域によって淡水域と汽水域が拡大した。
 デボン紀は造山運動の最盛期で、乾期と雨期が交代し、より乾燥に適したシダ種子類も現れた。水棲の節足動物が上陸し、昆虫類が陸上に出現した。脊椎動物では、原始魚類から軟骨魚類や硬骨魚類が分岐し、さらに硬骨魚類から分岐した肺魚類が陸生化を始めたと考えられている。
 デボン紀末期には、肺魚類から分岐し、鰭を進化させた四脚で陸上をはい回る最初の両生類イクチオステガが現れた。

◆原始魚類の進路選択
水圧に抗した身体の仕組みを作るのは容易でないため、古生代の生物は浅海に集中して覇権争いをしていたと想像されている。
原始魚類は鰭も未発達で、海底をはい回る程度の運動能力しかなく、生態的地位=ニッチが重なるイカやタコの祖先にあたる肉食の頭足類との生存競争では、弱者として追い立てられる存在であった。
カレドニア造山運動による陸地の拡大と浅海域の拡大、巨大な河川の出現による淡水河口域の広がりは、同時に広大な干潟や湿地帯を生みだしその一帯に汽水域を広げた。
頭足類に追われる立場の原始魚類は、この汽水域に進出したと考えられている。ここに来て、原始魚類が汽水-淡水域で生きのびるためには、次のような難関をクリアしなければならなかった。

  ① 海水と汽水(塩分濃度が大きく変動する)と淡水の浸透圧差
  ② 雨期の大量の雨水流入や濁り、あるいは淀みによる水中の酸素濃度の低下
  ③ 同じ理由などで生じる水温の比較的大きな変動
    (淡水-汽水域は、海域に比べ大気条件の変動をより大きく受ける)
  ④ 海水中より大きな重力負荷(海水に比べ淡水では浮力が少ない)

そして、汽水-淡水域に進出した彼ら原始魚類は、これらの問題を次のような「はたらき」を獲得し洗練することで生きのびた。この「はたらき」こそが次のステップである上陸を導びくものとなった。

 A.腎臓による浸透圧調節
 B.原始肺による空気呼吸
 C.原始的な体温調節系
   1.代謝水準の向上
   2.内臓循環系と体壁循環系の相反的な統合機能 原始的な自律性調節
 D.硬骨による内部骨格系

海中では不可避である過剰な摂取カルシウムを、原始腎臓によってリン酸カルシウムとして排泄していた原始魚類は、やがて排泄物を皮膚の下に蓄積 し、それが骨板となって頭や体を守る「盾」を形作った。原始魚類は、淡水域に上がって発展進化し、その後多くのものがまた海に下っていったと考えられてい る。
何故初期の進化が淡水域で行われたのか。原始魚類が鰭を持った段階で頭足類(イカ・タコの祖先)などとの争いを避け、新天地を求めて川を溯るようになったのかも知れないという。

三木成夫は、この間の原始魚類の心情を想像して次のように語る。
「一億年の歳月はかれらに長い長い試行錯誤の期間を与え、その過酷の自然はかれらに絶妙の適応をとげさせることとなった。」
進か、退くか、そこには一億年になんなんとする逡巡の日々があった

( 2003/03/24 )

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三木生命形態学に魅せられ飽き足らぬこと 

◆ 「個体発生は系統発生を省略しつつ繰り返す」ゆえに、億の歳月がこもった
  生命記憶を個々の個体が保存している
◆ 四億年前の脊椎動物の上陸という一億年の歳月をかけた事件の事跡
◆ 「ニワトリの(受精卵の)四日目」、(ヒト胎児の)「受胎の日から指折り数えて
   三〇日を過ぎてから僅か一週間で、あの一億年を費やした脊椎動物の上
  陸誌を夢のごとくに再現する。」
◆ 微細形態から宇宙大への飛翔のスケール

◇ 上陸=水中生活から陸上生活に移行=を可能にした形態、あるいはその
  過程で結果した形態が、個体発生の途上で「入れ墨」として残されていると
  しても、その形態に要請された機能についての言及が少ないのは何故か?
◇ 形態の意味探求の方向性が地質年代的に大きく飛翔しているのに対して、
  ヒトの生物学としての医学に向かうことが少ないのは何故か?

( 2003/03/24 )

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絡(脈)と経筋と経脈

絡(脈):
最も古い層に想定される脈管外体液の循環動態を水の流れとして捉えた「絡(脈)」。
脈管の発生前も後も身体をその中に浮かべる体液の海、そ の海に行き交う潮の流れ、あるいは満ち引き。この身体を往還する体液の潮流は、太古の海が潮汐によって生命を育んだように、今も生物の最もプリミティブな リズムを刻み細胞の生を支えている。

経筋:
多軸多関節構造体としての脊椎動物の縦方向・長軸方向に連なる筋肉の連鎖のもっている、姿勢や位置、つまり静的・動的なアラインメントを保持・支持するための反射的連関的統合的な働き。
動物系-体性反射機構=姿勢制御系・静的動的アラインメントを成り立たせている多軸多関節制御系としての経筋。
この機能を利用した遠隔的あるいは局所的なアプローチを経筋診断・治療と呼べる。

経脈:
A:体幹や体肢の一定エリアにおける体熱管理的な仕組み 往流系と還流系の位相差反応差の利用
B: 体幹の脊髄断区における脊髄反射的な体壁と内臓との間の自律神経反射の働き
C: 全身レベルでの体熱管理的な合目的性をもった統合反応の働き
D: 間接的(熱量移動と血量移動に伴う)な内臓活動への干渉

植物系-自律系反射機構=温度制御系・体内温度恒常性を成り立たせている地域性をもった統合的血管制御系としての経絡。

内蔵と体壁、体幹と体肢、より内部とより外部、上半身と下半身、上下半側の反対側、中枢側と末梢側などの部位器官の間の脈管系の相反・相同的な反応性の系列を、「経(縦方向の本流)」と「絡脈(横方向の支流)」として認識する。
この系列の機能を、病の発生と養生の理論根拠とし、全身的あるいは局所的なアプローチを行うものを経絡診断・治療と呼べる。

経絡(狭義)は、過酷な大気中に棲息する陸棲動物が獲得した「内臓-体壁の二大循環の相反方向性」にその起源があるのではなかろうか。
( 2003/03/24 )

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植物性的と動物的について

◆豊穣な形態学
随分と前にMさんに勧められ、形態学者・三木成夫の唯一の生前刊行書であるという中公新書『胎児の世界』を読んでビックリしたことがある。
ビックリしたついでに当時購入できた三木成夫の著作を片っ端から買い込んで、積ん読していた。なぜ積ん読で熟読しなかったのか、と言えば、粘着するような・共感的世界が重たくてちょっと辟易したためだと思う。
同書のリズム論などは、我々「東洋」系の道の者にとってはお馴染みの陰陽五行説や経絡論に通ずるような印象があった。まだまだ若かったので辟易は仕方がなかったのかも知れない。
つい最近、機会があって積んどいた三木成夫の本を熟読玩味した。以前の辟易は多少残っているものの影は小さく、原形原理への希求の強さと深さに今更ながら感心している。

◆生命形態の始源 - 植物性と動物性 
約40億年前の原始地球ではメタン、硫化水素、アンモニア、水素などの無機物質が高温・高圧下で反応して有機分子がつくられ、鉱物表面で重合して高分子化し、紫外線が遮断された環境で細胞化したとされている。
原始生物は、それ自身で光エネルギーなどを用いて自分の躯体となり活動のエネルギー源となる有機物を合成する「独立栄養」体であったか、自分の体=有機物を自ら造らず他者の体(有機物)を横取りする「従属栄養」体であったかの論議があるらしい。
何れにせよ、この原始生物を始祖として、光合成などによる独立栄養を営む生物である少数の微生物と植物、その独立栄養生物を「食料」とする従属栄養生物である人間を含む全ての動物、菌類、多くの微生物が派生していったと考えられている。
従属栄養と独立栄養とは、とりもなおさず植物性と動物性につながる生物の原系区分となる事柄であるが、さらにこの原系区分は、あらゆる動物種にみられる肉 食種と非肉食種の分化という事柄にも相似的に貫かれている(一部の食肉植物の存在を考慮に入れれば、栄養の独立と従属の問題はあらゆる生物相にみられる原 理なのであろう)。

・・・古くから(動物の)「口-肛」の器官は、生本来、したがって、植物と共通した「栄養-生殖」の機能に携わるところか ら、それは「植物器官」と呼ばれ、一方(体壁を形づくる)「頭-尾」の器官は、上述のように動物だけに見られるところから「動物器官」と呼ばれてきた。こ うして、脊椎動物では、植物・動物両器官が、腹背に重なって体軸方向に細長く伸び、それぞれの入口-栄養門と感覚門-が頭部に、また出口-生殖門と運動門 -が尾部に開くという特徴的な体制が造られる。

・・・・・両者に共通した「栄養と生殖」の器官が、植物では、天地の方向へ”積み重ねられる”ように造られるが、これが動物では、水平方向に、しかも「感覚-運動」という新興器官のケースに”はめ込まれる”ように造られる。

「動物的および植物的 - 人間の形態学的考察」から
        三木成夫『海・呼吸・古代形象』うぶすな書院

一般に自律神経と呼ばれている血管や内臓諸器官を支配している神経系は、古くは植物性神経系と呼ばれた。言うまでもなく、この神経の支配(受容と 効果)を受ける動物における器官群は植物性器官なのである。「植物性」は、現在ではあまり使われなくなった用語となっている(現代では、体性系と自律系の 用語法が一般的である)。

 動物における植物性器官群は、
   ① 栄養物をとり入れる消化-呼吸系(吸収系)
   ② これを全身に配る血液-脈管系(循環系)
   ③ 産物を外に出す泌尿-生殖系(排出系)
 の三群に大別される。

この吸収-循環-排出の三つの過程に分かたれた「食と性」の機能は、植物の「栄養-生殖」と共通した働きとみなされることで「植物的」なわけである。植物状態や植物人間は、まさしく感覚-脳・意識-運動系といった動物性が欠落した動物生の状態としてそう呼ばれている。
このアリストテレスを祖とした「植物的(性)」「動物的(性)」の二分法による生物のとらえ方は、われわれ東洋の道では、それぞれ陰と陽に対応して概念化される(生物のみではなく万物の二分法であるが)。

陰陽という記号的象徴語は、一気にシンボル思考へと直結し、細かな考察を素通りがちであり、そこが東洋の思考の強みであり弱みとなっている。

「植物的(性)」「動物的(性)」の語は、体性系と自律系とされる近年の用語法よりはよほど自然に対する「思想」と「意味」を保持した豊穣さをもっている(そこが科学主義からすると意に染まないのだろうが)。

鍼灸の医学の根幹をなしている経絡を、植物系としての経脈と動物系としての経筋、原生物系としての絡(脈)として考えることはできないだろうか。
( 2003/03/24 )

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経絡原型論 はじめに

 これは、東洋医学鍼灸の理論的実践的な根幹をなしている「経絡」について、その生物学的な考察を試みるテキストである。

 当然の事ながら、いわゆる専門研究者でもない在野の一介の臨床家の戯言でしかないのだが、原理を希求する構想においては専門家も非専門家もありはし ないのだという確信はある。その志においては、かのゲーテの「植物メタモルフォーゼ」の構想と何ら異なるところはないはずである(才能と教養は別にしての 話だが)。

 一年生草本の変身変態に、宇宙と生のリズムを観じ、その考察に創作とかわることない力を注いだであろうかの巨人の希求の強さほどではないにしろ、四季に 呼び起こされ、情動に応じ、体表に投影され、また、体表から干渉を受けるであろうわれわれヒトの〈生理〉としての「経絡(狭義)」、それは、遙か四億年の 昔、原始魚類が水陸両棲の一億年の歳月をかけて過酷な自然に絶妙に適応し獲得した「上陸の形象」の一つではないか、という想念が私の心をつかんで離さない (三木のそれは、脾臓の独立を「形態進化・発生」上のエポックとしたものだが)。

 地・水・火・風の天然自然の四大を、気象条件として要約すれば、水と温度につきてしまう。しなやかで丈夫なケラチン表皮と鱗の発展系としての体(羽) 毛、コラーゲン真皮とが作る皮膚気候圏による断熱と、皮膚血管系の開閉による放熱、これらの自律性体温制御系は、寒冷期・新生代に勝ち残る動物の必須アイ テムではなかったろうか。温度馴化は、寒冷のみならず熱暑への対応でもある。血管の開閉による自律性体温制御系は、汗の蒸発気化による奪熱冷却の機能を加 味することによって、より高度で幅広い温度適応力を持つにいたった。もちろん、このような高度な生理機能を可能となるのは、高い代謝レベルの維持であり、 そのためには四室心臓-循環系によるロスの少ない全身循環系が前提であるが。

 温度馴化を可能とする体温制御系の重要な構成要素が皮膚血管系であり、その全身的でかつ地域的な制御を可能としている統合の系列を、操作的な概念として構築したものを「経脈」として想定することができる。

 広義経絡に含まれる「経筋」という概念は、もっと古い起源をもった系列である。それは、内骨格系動物としての脊椎動物の起源に同期するであろう。
 支持系としての骨格と可動性関節、駆動系としての筋肉、それを制御する情報系としての神経、これらがセットになることで、動物は動く物となる。動く物 が、目標に向かって身体をくねらせ動かすとき、あるいは、一定の姿勢を保つとき、支持系と駆動系は情報系を媒介として一体となって目的達成に向かう - 食に 向けて腸管を運び、繁殖に向けて性器を運ぶ。この一体となった系列を「経筋」として捉えることができる。それは、原始脊椎動物の尾の「動き」に始まり、四 肢の起源となる鰭の水をかく「動き」を中継とし、陸棲四足動物の上下相反する「動き」の中に典型をみることができるだろう。

 最も古い層に想定されるのは、脈管外体液の循環動態を水の流れとして捉えた「絡(脈)」である。脈管の発生前も後も身体をその中に浮かべる体液の海、そ の海に行き交う潮の流れ、あるいは満ち引き。この身体を往還する体液の潮流は、太古の海が潮汐によって生命を育んだように、今も生物の最もプリミティブな リズムを刻み細胞の生を支えている。

 月の潮汐は、24.8時間で2回のピークをもった生物の時を刻み、また、29.5日で2回のピークをもった月暦をめくる。太陽は、それを23.29時間の生活時間に補正し、二十四の節気に区分し、また、約30日の生活暦をつける。

 非常に微細かつ繊細なこの「絡」の流れとそのリズムは、おそらく気圧や温度変動に対応する心身不調の淵源としてなぞることができるだろう。

 こんな思いつきの空想を、しつこくたぐってみようと思う。

( 2003/03/24 )

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2014年12月 9日 (火)

へルペスの鍼治療 (2007/09/04)

もう随分以前、皮膚科の医師を講師に招いた学術研修会での質疑の時のこと。ご長老T先生が質問に立たれ、「ヘルペスには鍼が良く効きますが」という主旨の発言をされた。皮膚鍼のようにして皮疹周辺をつつけばよく治る、と言われたように記憶しているが、或いは思い違い知れないが。

このT先生の発言に対して、講師の皮膚科の先生は、すかさずと言うか、にべもなく、「ヘルペスには、ウイルスを殺す新薬が開発されたから、これを使えば何の問題もなく治る」と、鍼などの出番はないよとばかりで、それっきりとなった。

ここで言うヘルペスは、帯状ヘルペス(帯状疱疹・たず)である。神経節に潜伏していた水ぼうそうウイルスが、免疫力の低下などで活動性を帯び、神経末梢の 皮膚に水疱をつくるのだとわれている。末梢神経を侵すために表在性のピリピリチクチクした痛みがあり、それなりに辛いものである。高齢者などで神経組織へ の侵襲が大きい場合には、ヘルペス後神経痛で非常に苦しまれることがある。また、角膜を支配する三叉神経領域のヘルペスは、失明の危険があるため慎重な取 扱い必要だとされている。

単純性ベルベスは、帯状ヘルペスの親戚筋にあたる同様の体内潜伏ウイルスによって発症し、口唇(熱の華)、陰部、臀 部、その他体表部に水疱を作るが、口唇や陰部に出来るものはあまり自覚症状はないようだ。体幹などの体表部に出るものは、帯状疱疹ほどはないにしても、や はり表在性の痛みを伴う。単純性ヘルペスは、何度も同じ部位に、体調変化に伴って発症するようだ。

ヘルペス(ここでは帯状でも単純でも可)に、果たして鍼治療は効くのかどうかというと、私は良く効く、それも水疱周囲の皮膚鍼で十分、という印象と治験を持っている。本当に効くかどうかが問題であるけれど、それより私は効くとすれば何故効くのかに大いに興味がある。

灸痕の周囲に散鍼をすると痕の修復が早まる、とすれば火傷や傷の治療にも同様か。アトピーでも何でも皮疹や苔鮮化した皮疹部でも、このような皮膚鍼が良く効く、ように思っている。

3 番程度の五分鍼を7~8本平にテープでまとめた「ほうき鍼」で、軽い発赤や発汗が得られるまで、軽くなでる、時につつく。これだけである。表皮へのごく軽 い刺激が、ヘルペスや皮疹に効くとすれば何故効くのか、本当は鍼灸の可能性を再発見する知見や原理があるはずで大いに興味がある。

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2014年12月 8日 (月)

タミフルの不思議・・・ (2007/04/05)

未だにタミフルの効用を説くお医者がいて ネット上でも「正しい医学情報の読み方」を唱えておられるようです。

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2014年12月 7日 (日)

彼岸の特異性? (2007/03/27)

春の彼岸(春分) >> 秋の彼岸(秋分) は、年間で最大の潮汐力が作用しており

 彼岸に 新月や満月、気圧低下・気温上昇が重なると

 副交感神経・リンパ系の優位が

 彼岸に 上弦や下弦、気圧上昇・気温低下が重なると

 交感神経系・顆粒球系の優位が

 強く表れるハズ

 今年は、彼岸前の19日が新月、昨日26日が上弦

    19日の潮汐は特に大きく
    26日は気圧上昇・気温低下がピッタリ重なっていた

生体は、この1週間前後で大きな「ゆらぎ」を経験し、大いに戸惑っていたはず
筋違い筋肉痛や神経痛様の疼痛の突発的な増悪、心気亢進などの不調を訴える人が多い

この突発的な「生体の戸惑い」「愁訴の増悪」「不調」は大きな <不安> をもたらすが それなりの由来があることを理解すれば、「嵐が過ぎ去るのを待つ」気構えで、心身ともに少しは楽になる。

 乾布・冷水摩擦
 パチパチ全身の皮膚を叩く
 豚毛のタワシで皮膚を擦る

とにかく皮膚を刺激し鍛錬することが、自律神経・免疫系の「ゆらぎ」を最小化する。

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2014年12月 6日 (土)

オルテガ (2007/03/25)

ホセ・オルテガ・イ・ガセット( 1883年明治16年~1955年昭和30年 )は、志賀直哉、北一輝、カフカ、ヤスパース、ムッソリーニ、ケインズと同年生まれのスペインの思想家。

ひょんな事からアマゾンの古本で、1970年昭和45年刊オルテガ著作集全8卷を入手。 この本が出た1970年は、大阪万博、日本赤軍よど号ハイジャック事件、全共闘運動の末期、私は高校2年生。
睡眠薬代わりに、毎日10数ページを進んだり後ずさりしながら、やっと第1卷を読み終えた。

スペインよりもポルトガルという国・地方に興味があって、そのポルトガルの歴史などを調べていた中で、オルテガ著作集の古本に出会った。 西部邁の評論などで文明論者として引用されていた覚え。色摩力夫という外交官だった人の『オルテガ』も斜め読みした記憶。

ここで、少しメモ。

  「私は私と私の環境である」 現代の課題 8 生の価値 1923年

生はそれ自身の自由にまかしておくと利己主義的になりがちであると主張されてきたのは、大きな誤謬であった。なぜなら、生はその根底、その本質において明らかに利他主義的であるからである。

生は、利他主義の宇宙的実現であり、生ける自我の他我への永遠の移住としてのみ存在する。

生に意味を与えるものは超越的な価値ではなくして、生におけるおどろくべき寛大さである。この寛大さは、超越的なものとは異なったあるものによってその情熱を燃え立たせる必要がある。

生の本質をなすところの評価さるべきあるものによって点火されるその力は、それらの偉大なもの(注:超越的なもの、科学、芸術、正義)より価値の低いものではないのだということを指摘したいのである。

生は、それを通じて他の事物を見ることのできる透明な媒体、水晶のごときものである。 (生の)価値の第一のものは、類的に見られた生一般 - その方向や内容はどうであれ - に属するものである。

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タミフル・・・ (2007/03/25)

連日タミフルの話題が新聞TVで報道されています。

素人考えと言われそうですが、タミフル服用時に問題となっている異常行動や譫妄などは、C型肝炎治療に用いられたインターフェロン製剤使用時の副次作用に似ているのではないでしょうか・・・

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2014年12月 5日 (金)

インフルエンザ狂想曲の可笑しさ (2007/03/08)

鳥インフルエンザ騒動も、新型インフルエンザに対するヒステリックな警告も、根本で何かが違っているような気がする。

  • 野鳥に対して高病原性鳥インフルエンザ・ウイルスが病原性を示さないのは何故か?(一部で野鳥の大量死も見つかっているが、これは鶏からの逆ルート感染が疑われているらしい。)
  • ウイルスは野鳥の糞尿から鶏へどうやって伝播伝染するのか?その侵入ルートは?
  • 高病原性鳥インフルエンザ・ウイルスは、野鳥に病原性を示さず、なぜ鶏や家鴨などの家禽に対してだけ病原性=毒性を示すのか?
  • 鶏同士のウイルスの伝播のルートは?
  • 弱毒性ウイルスと強毒性ウイルスの違いはどこにあるのか?
  • 強毒性鳥インフルエンザ・ウイルスは、どうやって鶏を殺すのか?
  • 鶏の直接の死因は?
  • そもそもウイルスの病原性・毒性とは何なのか?

マスコミの鳥インフルエンザ報道も厚労省の新型インフルエンザ対策にしても、不安を煽るだけの内容で、正確な情報(ドグマではなく相対立する見方を含めて)、が伝えられていないように思える。

インフルエンザは怖い病気と、厚生省と医師会が大宣伝をかけ、それにマスコミが追随しパニックの誘発を狙っているのではないかと穿った見方さえできる。

インフルエンザに関するいろいろな疑問を探るべく、文献やサイトを当たり以下メモを取ってみた。

  1. インフルエンザ・ウイルスの元々の宿主は、シベリアと東アジアを行き来する鴨などの水鳥で、彼らには無害な共生者。鴨などの野鳥は、夏はシベリア、冬は南中国や日本に来て冬を過ごしている。
  2. 集団を営む野鳥では、棲息密度が適切に保たれ、営巣地換えや渡りで排泄物や病原体の累積を回避することで「公衆衛生」は保たれているであろうから、集団を営みながらも「伝染病」で死滅することなく種として存続している。
    密集度の高い都市文明生活に、伝染病発生の本質がある。
  3. 鳥インフルエンザは、家鴨や鶏の糞から豚などの家畜に感染し世代交代する間に人に感染して病原性を発揮する人インフルエンザに変化したのではない かと考えられている。ウイルスは野鳥→家鴨→鶏→豚→人間とうつる過程でウイルスの表面蛋白が変化し、一方で抗体はその表面蛋白を認識して攻撃するが、毎 年、このサイクルのなかでウイルスの表面蛋白が変化していくのでワクチンはなかなか的中しない。
  4. 強毒ウイルスが野鳥集団を襲い、彼らが全滅すれば、その強毒ウイルスも死滅するであろう。逆に弱毒ウイルスに感染した野鳥集団は死滅することはなく、この弱毒ウイルスはそのまま経代種として存続し続けるだろう。
  5. 飛ぶ鳥の筋肉は多くのエネルギーを必要とし、酸素取込能力も高い必要があり鉄分を沢山含み赤みを帯びており、40数度の体温を作って高い代謝レベルを維持している。
    逆に、飛ばない鳥の筋肉は爬虫類のそれに近く、赤みが少なくパサパサのササミ状を主とし体温は40度前後。ケージ飼いのニワトリはさらに劣悪な環境にあり、筋肉の赤みもより少なく、体温もより低い状態にある。
  6. 鳥インフルエンザ・ウイルスは高体温の鳥生体内で寄生繁殖しているが、体外に排出されたウイルスの生存条件は寒さと乾燥であり、環境温度5度程度 の低温で15%~40%の低湿度の乾燥した環境下でウイルスは比較的長時間生存するらしい。一方、東南アジアでは通年の流行発生があり、低温乾燥の条件と 矛盾している。
  7. 早春、環境温度が5度以上の比較的湿潤な気候条件下でインフルエンザの流行が報告されることがある。低温でなく比較的湿潤な気象条件でインフルエンザ・ウイルスは生存し伝播できるのだろうか。本当にウイルスは検出されているのだろうか。
    春先の気象条件で流行る風邪は、普通感冒(インフルエンザ・ウイルス以外のウイルスによる)の熱病化した姿ではないか。
    高熱と強い咽喉痛を伴う普通感冒の熱病化は、呼吸器における自然免疫系の機能亢進を導くような気象条件などによりウイルス感染に対して過剰反応を招いた結果ではないだろうか。
  8. 病原性をもつインフルエンザ・ウイルスに感染すると、生体防御系は獲得免疫系の発動に先立つ自然免疫系=インターフェロンなどのサイトカイン類を産生しウイルスを攻撃するが、このサイトカイン類の作用で発熱や強い倦怠感などが生じる。
    また、インフルエンザで高熱が出るのは、元々の共生していた宿主が高体温であったことに関連し、このウイルスを排除する条件として高温が必要なためではないだろうか。
  9. インフルエンザ・ウイルスが数時間で世代交代すると、1日で十数回、その間に変異したヤツのなかで毒性が強いものが爆発的に増殖するとされる。
    最初の12時間で爆発的に増えて、この爆発的な増加と同時に身体の中でサイトカイン類も増加し、その後、ウイルスは減ってくるという。
    サ イトカイン類の代表はインターフェロンであり、この抗ウイルス作用をもったインターフェロンが無力感や身体がだるいなどの副次的な症状発現の主因だとされ る。この病原性インフルエンザウイルスのその毒性は、細菌毒のような「毒」なのか、サイトカイン類の産生を強く刺激するウイルス成分なのか。
  10. 病原体進化論によれば、宿主を殺しても容易に次の宿主へ伝播できる状況があれば、極めて速いスピードで進化する病原体は凶悪化し、その逆であれば善良な同居者となる。野鳥を壊滅させるウイルスは、その野鳥の壊滅と共に消滅する可能性が高い。
  11. 4~5000万人が死んだスペイン風邪大流行(パンデミック)は、第一次世界大戦前後の兵士や貧困者の劣悪過密な住環境と無関係ではなく、最初の発生発病はフランス戦線の塹壕内ではないかと疑われている。
  12. スペイン風邪や鳥インフルエンザによる直接死因は、サイトカイン類の過剰生産(制御不能となった嵐=ストーム)ではないとかも言われている。
  13. スペイン風邪の死亡者の年齢パターンは、通常のインフルエンザによる死亡曲線と著しく異なっており、幼児や高齢者ではなく働き盛りの兵士世代にピークがあるという。
  14. 新型インフルエンザで世界的大流行=パンデミックで、数千万人から億人の、国内で64万人の死者が出るという予測がされているらしいが、一方で、 この予測はヒステリックなもので、新型インフルエンザがパンデミックとなる条件や可能性はないと言い切っている研究者も少なくない。
  15. インフルエンザなどの高熱を出す風邪で重症化し死亡するのは、ウイルス性脳炎ではなく、サイトカイン類によるショック反応だろうという。
  16. インフルエンザなどの高熱を出す風邪に抗炎症剤を投与することで発症するだろうとも言われているライ症候群による脳炎や突然死も、同様にサイトカイン・ストームの可能性が高い。
  17. インフルエンザに対してタミフルや抗炎症薬を投与した時に起こる突然死や異常行動も、同様にサイトカイン・ストームの可能性が高い。
  18. インターフェロンによるC型肝炎治療において見られた異常行動や鬱なども、サイトカインのネットワークの攪乱の結果ではないか。
  19. 高齢者がインフルエンザで死亡する場合は、サイトカイン類によるアレルギー反応としての間質性肺炎や、続発するインフルエンザ菌やその他の病原菌による肺炎の結果だという。
  20. 抗炎症鎮痛解熱剤は、体温を下げると同時に生体の抵抗力を下げてしまう。免疫系の実体であるサイトカイン類の活性は低下し、血の循環も悪くなり、ウイルスは増殖する。しかし、生体内の免疫反応は止まらず、サイトカイン・ネットワークの制御が効かず攪乱状態になりかねない。
  21. 抗生物質はウイルスには効果がなく、生体内の常在菌を殺してそのバランスを崩してしまう。常在菌のバランスがウイルス繁殖を抑制し免疫機能を維持している側面がある。抗生物質を早く投与し過ぎると、この常在菌のバランスを崩し、ウイルスは逆に増えてしまう可能性がある。
    抗生物質は、後期、いったんウイルスの増殖が終わり、気管や肺の防御力が低下して細菌性肺炎が起こった段階で投与されるべき。例えば、二週間たっても、まだ咳が止まらない、黄色痰も多い、比較的高い熱が続く場合など。
  22. インフルエンザ・ウイルスは、咳やクシャミなど体液の飛沫やその粒子が核となって伝播するが(飛沫感染・飛沫核感染)、密室条件や近接摂取の機会 などがあればの話であり、その伝播の多くは体液や排泄物の付着物を接触して感染する接触経口感染ではないか。つまり、手を洗うことが一番重要。
  23. ヨード剤(イソジン)などの消毒薬剤でウガイするのは二重の意味で間違っている。イソジンは強力な消毒殺菌剤であり、咽喉の常在菌を殺してしまい ウイルスにその席を空けてやることになる。また、強い殺菌力は正常細胞・組織をも傷つけてその活力を奪うことで、ウイルスや他の細菌の接着を容易にしてし まう。ウイルスの繁殖の素地を形成するこの二重の意味で、ウガイにイソジンなど殺菌・抗菌・消毒薬剤を用いるのは間違っている。

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2014年12月 4日 (木)

筋肉痛と鍼治療 (2006/07/07)

運動後の筋肉痛(遅発性筋肉痛)については、よほど痛みが強く長びかない限り治療の対象になることは少ない。 損傷した筋繊維の完全修復には3~4週を要するとされるが、これが鍼治療で短縮するのかどうか。

常連の運動選手や愛好家達は、試合の後やハードな練習後に来院するが、この時の治療は大抵はかなり強目のものとなっている。

このような 時、彼等は、筋肉痛というより「張り」や「こわばり」の改善を求めているが、この「張り」や「こわばり」の所在が深ければ深いほど、やはり鍼も深く刺すこ とになる。浅い「張り」や「こわばり」は、浅い鍼や遠隔刺激でも事足りる。これらの「張り」や「こわばり」が遅延性筋肉痛といえるかどうか微妙である。

これに対して、試合前とか調整期に訴えられる「張り」は、当然にして遅延性筋肉痛ではなく、文字通り筋肉の部分的な過緊張か、関節の動きが部分的に適合性を欠いた筋腱の動きの不調であったりするようだ。

試合前などに、むやみに筋緊張を弛めてしまうと場合によってはパフォーマンスが落ちるはずで、賢い選手達はTPOで治療する所を選んでいる。自分の筋肉や関節の状態と場面と治療家の得意技を勘案しているのであろう。
賢い治療家も、選手達の状態と場面に合わせて治療法を採用すれば良いはずだが、如何せん得意技がつい出てしまいがちとなる。場面に応じて治療を禁欲するのは難しいところがある。

閑話休題

筋肉痛の鍼治療の考え方としては、打撲や肉離れや捻挫などによる筋肉損傷と同じでよいだろう。

筋肉痛に対する鍼治療の効果は

  • 筋トーヌス調整神経系への干渉により筋緊張を弛める
    硬く痼った筋肉の収縮残留を解く
    → 筋内血管に対する外的抵抗の減弱 筋ポンプ作用の回復
  • 自律神経系の血管反射を介した血管拡張
    → 筋内血管を拡張させ筋内血行を改善して
  • 損傷組織の修復過程の促進

などによるものと考えられる。

ところで

下手なマッサージや指圧の後の「揉みこわり」
強い鍼刺激の後の「鍼ごわり」

などは一種の筋肉痛と考えられるが、その本態は「遅発性筋肉痛」と似たようなものなのだろうか?

そもそも「遅発性筋肉痛」の本態も、本当のところよく解っていない。
子供に筋肉痛は起こりにくいこと。
高齢者でも筋肉痛が起こりにくいこと。
これらの知見は「遅発性筋肉痛」の本態を示す重要なヒントのように思う。

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2014年12月 3日 (水)

歳をとると筋肉痛が遅れて起こるのはなぜ? (2006/07/06)

先日、ある会合で「年をとると筋肉痛が遅れて出てくるのは何故?」と質問され、「月と太陽と気象」をテーマにしていた話だったので少し困ってしまった。

会場にはボディビルダーをしている方などがいて、遅筋速筋がどうのこうのという話をされ、いろいろと話題が広がって面白かったが、「加齢によって筋肉痛=こわりの発現が遅れるとしたら、修復反応の加齢による遅延ということで説明がつくのではないか」ということでお茶を濁しておいた。

「歳をとると筋肉痛が遅れて起こる」というのは経験的によく言われている。
なぜそうなるのか「筋肉痛の加齢遅延説」について少し調べてみた。

いわゆる運動後の筋肉痛は、遅発性筋肉痛(DOMS=delayed onset muscle soreness)と呼ばれている。

本態あるいは病態

  • 遅発性筋肉痛の本態は、筋と結合組織の損傷後の炎症反応に伴う現象
  • 痛覚受容器は、筋線維そのものにはなく、筋膜に存在する
  • 筋線維の微細損傷の修復時にみられる炎症過程で発痛物質が発生し、これが筋膜を刺激して痛みが起こる
  • 筋肉組織からの逸脱酵素の一つであるCPKは、運動後3、4日目にピークに達する
  • CPKは、筋線維の傷害を反映している
  • CPKのピーク時点で、筋線維は壊死し、白血球の浸潤や腫脹などの炎症像が見られる
  • 筋繊維の再生には3、4週間かかる

原因となる運動

  • 筋肉が引き伸ばされながら力を発揮する運動(伸張性運動)に伴って起こる
  • 筋長が最大限に伸びた時に伸張負荷が加わると、生じ易く、筋力低下、腫脹も顕著になる
  • 筋肉が短縮する動作のみ(短縮性運動)ではほとんど生じない

その他知見

  • 3~5歳の幼児期には筋肉痛が起こらない
  • 20歳と60歳の人に相対強度が同じ運動をさせて比較
  • 筋肉痛の発現までの時間や回復に要する時間に差がない
  • 筋肉痛の程度は高齢者で有意に軽度であった

歳をとると筋肉痛が遅れて起こるのはなぜか?( 筋肉痛の加齢遅延説 )

◆ 横浜市立大学・野坂和則  加齢遅延説そのものに疑問

  1. 年齢毎に相対強度が同じ伸張性運動を行わせて比較
  2. 若い頃は直後から筋痛を生じるような激しく強い運動をしがちであり、筋肉痛が早く出る感じ
  3. 歳をとると若い頃のような運動の仕方もなくなり、筋肉痛が(若い頃より)遅くなる感じ
  4. 筋肉痛は、運動の種類や強度による違いや個人差が大きい
  5. 要するに「歳をとると筋痛が遅れて生じるのは誤り」と結論

◆ 東京学芸大学・宮崎義憲  加齢遅延説をそのまま受け入れて

  筋肉痛が遅れて発生するのは、

  1. 加齢により血流が悪くなり、白血球の集まりが遅く 傷ついた筋線維を取り除くのが遅れ、発痛物質の発生も遅れ、痛みの発現も遅くなってしまう
  2. 筋線維の傷害後に現れる炎症反応が若い人では早く、年をとるとその反応が鈍くなることが原因の一つ

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2014年12月 2日 (火)

2月の月と気象 (2006/02/21)

2月の気温の変動はかなり大幅で、2~3日おきに高低が大きく入れ替わっています。

(月と太陽と気象のグラフ参照)

一年で最も体調変化が大きいのは春先から初夏にかけてです(特に3月~4月)。
この最大の体調変化の要因は、

気象要因:
寒から温への移行期であり、かつ、日内と日間の変動も大きく不安定であること
生長収蔵の生命現象としては、〈蔵〉から〈生〉への転換期であること

月日要因:
春分をピークとした年最大の潮汐変動があること
春分と秋分の前後の大潮は、一年中で最も大きい
アマゾン川の流れが河口から内陸に向かって大逆流するポロロッカも、2月~4月、9月~11月に見られる

人的要因:
学校や会計の年度の節目であり、色々な意味で環境変化が大きいこと、多忙になりがちなこと

などが考えられます。

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月と太陽と潮汐 (2006/02/06)

少し勉強して、潮汐の指標を変更しました。

気象庁のホームページで、過去3年間の潮位表を入手し、このデータと月と太陽に関して算出した「月日総合値」の数値との間で相関を調べ、最も相関が高くなるような重み付けを探りました。

[ 潮汐変化の要因としては、月の位相(月と太陽との位置関係)が最も大きく、ついで月と地球の距離、そして月の黄緯、太陽と地球の距離が最も影響が少ない ]

月日総合値=(月黄緯要因×0.55+太陽地球距離要因×0.05+月地球距離要因×0.65+月位相要因×1.25)×0.7

これが、月日総合値の新しい算出方法です。
これと先に挙げた気象庁の潮位表の相関は「 0.9 」前後と高い相関係数を得ることができました。

今までの「総合値」は、MoonSystem T.Nonaka氏の独自な解釈に基づく指標であり、必ずしも「起潮力」そのものの変化を追いかけるものではなかったようです。
「月と太陽と気象のグラフ」は、全て新しい「月日総合値」によって計算し直して作図しています。

これからは、この新しい「月日総合値」と気象総合をプロットしながら、人の体調変化について追跡したいと考えています。

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2014年12月 1日 (月)

不在の抗い神戸の少年の悪 (2006/01/06)

 咄嗟に思いうかんだのは、動物園育ちの類人猿のことである。何事かの不在が、母と子をして母や子として成しえることなく、ただの存在物であるかのごとき 個体として孤立せしめ、次々と関係障害の病理を呈してゆく(森の中の彼らにこのような事柄が皆無であるとも思えないけれど)。それを、人類創世の闇のうち にあったであろうヒトが人となるにあたって突き当たった錯乱ということもできるだろうし、家族の崩壊や伝統文化や歴史の消失という切り口で、成されるもの としての人間と、成すものとしての社会や時代や文化の問題につなげることも可能であろう。生得的な精神病理という見方でさえも、素因(今風に言えば遺伝子 か)と環境の関数としての病理という病因論の公式を外さぬのだとしたら、内因発現に幾ばくかは関わるであろう外因としての環境要因を抹殺するわけにはゆか ぬのであるから、犯罪者個体の内に独立して生起した異常と断定してしまうわけにはいかぬであろう。

 形成するものといい、形成されるものといい、かの少年の身の上で経過した時間の質とその結果が、何事かの不在の抗いとしての異様な悪が、彼にまつわる人間の存在と不在の軋みが問われているように思われる。

 親愛の情つまりは親愛関係の欠如。と、私は動物園育ちの類人猿の病理と同様に、今回の事件の核心をそう断定してしまうのだが、それは、関係の不在 ということでもあろうか(もちろん、「関係の不在」を纏う関係はあるのであり、まさにその不在をまとい装う関係が人間としての「悪」なのだ)。そのような 要約をもって(簡単な要約では済まぬ事柄であることは十分に承知した上で言うのだが)幾多の評論や見解を眺めみると、私には皆が皆、言葉としては半ば同じ ことを言っているような気がして仕方がないのである。学校教育やバーチャルリアリティ云々は枝葉の挿話にすぎない事柄であり、何事かの不在の有様やその形 成を問うことの向こう側に、人間存在の深き根拠をどう見据えるのかが問われているのだ。

 人間というものに抱かれたイメージが根底から損なわれる ようなこの種の事件は、おそらく人類の創世期の闇が明けぬ現れでもあろうが、人類史としての人間の個体史がいつでも創世を内包しているということの証とし て見れば、時代を問わずこの種の事件が起こりうることをも意味している。と同時に、それを全きに阻止しえないにもかかわらず、阻止せんとする人間の人間と しての人類史の黎明をも意味しているのではあるまいか。

 三十年前、イギリスで起きた同様事件を分析した書物を翻訳紹介している林弘子は、子どもによる殺人は少なくはないが、今回のような「動機のない」殺人は非常にまれであるとして、「反社会的人格障害」という考え方を紹介している(西日本新聞七月十日)。

 四歳と三歳の男児を絞殺した犯人、十一歳のマリー・ベルという少女は、

おまえたちはまぬけだ
だってあたしたちがころしたのだマーチン・ブラウ ンを
おまえたちもっと
きをつけろ
またころしがあるぞ
デカやろうへ

というメモを犯行メッセージとして残したという。たえず暴力を振るい、うそをつ き、ハトの首をしめ、ついには幼い子どもたちの首に手をかけた犯人の少女マリーは、まるで「酒鬼薔薇聖斗」である。犯行の奥に潜む「動機」あるいは犯行自体を、「助けをもとめる少女の叫び」であると解釈する著者は、われわれの無理解と無関心と抑圧こそマリーの共犯者であると告発し、マリーのケースは「非常にまれなもの」ではなく、広く普遍的に存在している潜在的な人格障害の問題がもっとも深刻な形で顕在化したケースなのだという。

 ①他人に対する感情の欠如、②衝動的行動、③攻撃的行動、④羞恥心の欠如あるいは良心の呵責の欠如、⑤罪悪感の欠如、⑥悪徳を表明し危害を加えた いという欲求、などと特徴づけられた「反社会的人格障害」という「病名」。それは裏がえせば社会的人格形成不全とも言いうるものであろう。なる程、感情・ 羞恥心・良心・呵責・罪悪感の欠如と、現象を羅列してみればその通りである。

 他者の接触を極度に畏れていた自閉症のドナ・ウイリアムズは、「身も凍るような、泣き叫びたいほどの発作の正体は、このあふれ出した感情だったの だ」と、恋人に触れらて生じた情動のパニックから、〈感情〉という事柄を発見した。感情の本質は、他者へ向かう情動のうねりであり呼びかけである。苦しみ とは、他なる何者かへ向けられる叫びである。喜びとは、良き人へ向けられる語りかけである。叫びといい、呼びかけといい、語りかけといい、他なる者へ向い 向けられ発せられる〈声〉である。

「おかしくもなし独り居の屁」

 誠に他なる者なしに感情は沸き立たぬのである。ところでしかし、〈感情〉は本当にわたしに発し、自己に沸き立つの か。〈感情〉は自己の占有物なのか。〈感情〉は、ドナの内からあふれ出したのか。そうではあるまい、本当は。〈感情〉は、自己に内在しているモノではな い。わたしの外に在り、至り来る事柄なのではないか。他なる者の視線こそが、叫び、呼び、語ることに先立ってあり、それが叫ぶことを可能ならしめる。〈感情〉の起源は、他者の存在、その視線の照射にある。そうだとすると、「他人に対する感情の欠如」といった物言いは、中途半端で根が浅い。〈感情〉の本義は 他なる者の視線であり、その応答として生起する事柄なのだ。

 社会的人格、それはいったい何に由来するのか。この問いが発せられたのかどうか不明なのだが、いったい社会的人格とはどういうことなのか。人間とはいったい何ものであり、何事なのか。ついに「透明な存在」という自己観念の幻想から抜け出すことなく、その透明を色あげする他者を発見することがなかっ た人間の悪。弱き無辜の存在たる他者に向かうべき人間としての自己発見の冒険が、当の他者たるべき儚く弱き者を「野菜」として毀損する悪業に転落する。その行為は自己をますますもって漂白し、おのれの人としての根拠を失わしめることしかなかった訳だ。エゴの無軌道に見える膨張とは、実は自己の拡がりなぞではなく人間としての自己の極小化にすぎぬのだが。自己の人間存在を染色することがなかったこの少年の、その人間をどう考えればよいのであろう。反社会的人 格障害というレッテルは、はたしてこの少年や少女の存在の深き欠落に届き得るか。

 分かりやすい話として言えば、人は人として生まれるのではなく、人に成るのだという言い方で十分に事足りる。決定的な何事かが人として育つべき生育歴において欠落していたとも言いうるのだろう。女性週刊誌などスキャンダル・ジャナーリズムが得意とするこの領域の具体的な探索結果(それで何かが分か るとも言い難いのだが)は少しずつ明らかとなろうが、メジャーなメディアは、糞真面目に社会化すること、社会と時代の病理として「わたしたち」の問題とす ること(集合形の呼びかけが集合的であればあるほどに、逆説的に各要素たる個に届くことがないように、決して「わたし」個々に負わされることのない問題と してしか「問題」足りうることがない)に終始しているように見受けられる。それは、先のイギリスの識者の「普遍的に存在している潜在的な人格障害の問題」 という言い方の「普遍的」ということの敷衍でもあり、「われわれの無理解と無関心と抑圧こそ共犯者」なのだという時の「われわれ」という立場の反省意識な のでもあろう。

 こういった真面目な面々は、「非常にまれなもの」をまれではないと言い募る。「わたしたち」の問題、「社会」の問題と言い募ればつのるほどに、〈われわれ〉と〈社会〉は虚ろに遠ざかってしまう逆説ゆえに、私は「理解を示さない仕方こそが、真に理解に達する道である」という逆説を対 置してみたくなる。それは、この場合、この事件の本質を社会と時代に還元せず、〈人間〉の問題として考え尽くすことであり、当事者たる子どもや親にすり寄 らず共感してみせないということでもある。堂々とした教説が陥る倒錯が、人間存在の深き根拠を漂白しないためにも、それは必要な手続きではあるまいか。

 わたしは何故にわたしであり、あなたではないのか。私が、他の誰でもないわたしであるというのはどういうことなのか。肉体という革袋に隔てられ、モノとして在るわたしの固有性。ここに在ることによって、そこに在ることがかなわぬという個体性の自明。その自明性が、感じ、考え、意識し、思念する自己 を、モノとしてのわたしに内在する「内面」として、わたしという存在物に帰属し占有される「自我」として演繹する。

 わたしのからだは私の体であ り、あなたの体ではないことが自明だとして、私の体を意識し、あなたの体を感じ、あなたに向かい思ふ、つまりはわたしという自己意識は、私という存在物に 内在し、私が占有するモノなのか。わたしは私であり、私のものであるという時の私、私のものであると思考するわたし、それは何者なのか。内存在の「自我」、それは神話ではないのか。

 自他を隔てる革袋を隔壁として意識するわたしは自なのか他なのか。隔壁を隔たりとして感じる自は既にして自にあ らざるものである。自足する自に壁は存在しない。自に至り来る他こそが、自をして革袋を意識せしめるのではないのか。他によって自は自たり得る。他によっ てしか自は自として勃起することはない。自他未生という有り様は、自他を統べ、存在を統一するという意味での「神」にまつわる神話である。宇宙の果てまで 飛翔し、存在と一体となるといった超越や無についての修行や思念は、実は自我や我執からの離脱を図る我欲の現れとしての自我の極大化であり、人間としての 自己の極小化を意味する自我神話の一形態である。革袋の消失を意味するお伽話である。自我神話の神は、〈神〉にあらざる我欲の結晶である。〈神〉は何者か としてあるのではなく、事柄として関係として自我という存在を襲い打ち壊し、人間という自己を勃起せしめる何事かとしてある。

 自我神話の世界に他者のいる余地はない。その神とは我欲そのものなのだから。我欲は人間に在らざる存在である。隔壁なき存在、全体であり無である存在それ自体。「透明な存在」とはそういった意味ではなんと適切な表現であることか。それは、〈神〉と人間の不在である。自我神話の神を信奉する者、それ を近代人だとすると、件の神戸の少年は自我神話の神のもとにある立派な近代人、近代人の鑑であろうか。そこに善も悪もない、かのような神話として自我は極められた。

 ところが、神話が神話である所以は、隔壁なき存在であるはずの我欲的自我にとって、隔壁がなくなることがついにありえぬからである。 熱狂と錯乱のうちには隔壁はない。それは悪としての悪であり、存在としての悪である。それは青天白日の元にあり、秘匿されることのない、隠されることのな い悪である。青天白日はおのれ自身なのであり、秘匿すべき他はありえぬのだから。熱狂と錯乱のうちには、神話の居場所はない。秘匿される悪、それは存在と しての悪とは違うものだ。やはり人間としての悪業なのだ。肥大する自我といい、極大化する我執といいながら、やはり善なる他者を当て込んでいるのである。 自我神話は、内在する我欲としての自己の極大化を、他者の不在を、「関係の不在」をまとってはいる。しかし、不在を纏いながら秘匿せんとする関係はあるの であり、まさにその不在をまとい装い秘匿せんとする「関係」こそが人間としての「悪」の由来ではないのか。神話の内では、不在は不在として、何者にも、何 事にも抗うことなく唯在るだけである。しかし、神話にあらざるこの世では、実は不在をまとい装う関係として「不在の抗い」を装いながら人間の悪となるの だ。

・・・・ 他者への責任のうちには、人間性を構成する記憶可能ないかなる決定よりも古き拘束のごときものがある ということです。他者に目覚めないことの可能性が人間のうちにあることは明白です。悪の可能性があるのです。悪、それはただ存在だけからなる秩序です。逆に、他人へと向かうことは、存在のうちに人間がうがった突破口であり、「存在するとは別の仕方で」なのです。

・・・・ 聖潔という理想(引用者注:他人の優 先権を認めうるという人間の可能性。人間とは聖潔が異論の余地のないものであることを認めた者だ・・・・)は、人間が存在のうちに導入したものなのです。 聖潔という理想は存在の諸法則に反するものです。

・・・・均衡を取り戻すこと。これが存在の法則です。病もなく例外もなく無秩序もない、それが存在の秩序 です。
               (E・レヴィナス『哲学、正義、愛』)

「神は存在である」という巷間に通用している伝統的な神-実在論を覆し、神は存在の彼方であり、「存在するとは別の仕方で」ある、「神は他者のうちに真に現前 している」、「他者の〈顔〉のうちで私は神の〈言葉〉を聞く」、などと聞き慣れない言葉遣いで〈神〉を語るレヴィナス。私たちの神仏の伝統からすると、本 当のところはよく分からぬのだが、「なにものか」ではない、他者との関係のうちにあるとGodされる〈神〉ならば少しはわかりそうだ。〈神〉は白人種の専 売ではないのだから。わたしたちにも慈愛慈悲もあれば、仁もある。惻隠だってあるのだ。神というかたちに就き憑かれない倫理的関係としての愛や仁や惻隠 は、超越する統一体として神の存在を説く者たちの虚無に風穴を開ける。愛や仁や惻隠こそが、人間の文明の取り柄、起源でありはじまりなのだ。

 そのレヴィナスは、「他者に目覚めないこと」「ただ存在だけからなる秩序」と悪を規定する。悪とは何事か。存在の法則に従う秩序。それを存在としての悪とすれば、その悪は存在の法則に無秩序をもたらすものとしての人間にとっては、無差別・無軌道・無法則な事柄であるはずだ。つまり、ただ存在の法則 だけからなる秩序は、人間にとっては無秩序なのであり、逆に人間にとっての秩序は存在の秩序を乱し無秩序をもたらす。

 では、存在の法則がなす秩序としての悪が、無差別・無軌道・無法則・無秘匿ではないことが大いにあり得るのは何故なのか。熱狂し錯乱し狂乱する者の所業は、まさに「ただ存在だけか らなる秩序」の体で無差別・無軌道・無法則・無秘匿をもって自他を襲うであろう。それはよくわかることだ。存在の悪である。だがしかし、世に瀰漫する大方 の悪は、このような姿をとらぬのではないか。秘匿され逃走する悪は、既にして悪の自覚が、つまりは善を当て込んでいるのではないか。自己保存という存在の 法則に従っているだけだ、と言えぬこともないのだろうが、匿される悪は人間の悪として、善を当て込んだ悪なのではないか。

 弱き者の毀損、仁愛という人性の根源を侵犯することを通じて、自己の内存在の拡張を図る、我欲を拡大する、自己を拡大するには、逆に無辜なるものの毀損が最も近道である。弱き他者の毀損を通じてしか、自己を自己として認識できない。人性の根源をが得られないから。

 他者不在の自己拡張は矛盾ではある。自己を自己とするには他者が不可欠なのだから。つまり、他者は邪魔者として存在するが、その他者に「顔」がないということなのである。しかし、その他者を邪魔者とする自己は、他者の顔なしで自己足り得たのか。

 ついに「透明な存在」という自己観念の幻想から抜け出すことなく、その透明を色あげする他者を発見することがなかった人間の悪。弱き無辜の存在たる他者に向かう人間としての自己発見の冒険が、当の他者たるべき儚く弱き者を「野菜」として毀損する悪業に転落する。その行為は自己をますますもって漂白 し、己れの人としての根拠を失わしめることしかなかった訳だ。エゴの無軌道に見える膨張とは、実は自己の拡がりなぞではなく極小化にすぎぬのだ。

「弱い者いじめが楽しくてしょうがない」とこの少年は日ごろから表明していたといい、「弱い者ならだれでもよかった」と被害者少年の選択理由を語っ たという。通り魔事件も少年の仕業の可能性が高いようで、被害者は何れも低学年の女児であった。「ボクは殺しが愉快でたまらない」という犯行声明は、確かに異様ではあるが、異様に過ぎて劇画の世界のごとくに現実離れの感覚を呼び起こしてしまう。けれど、彼はそこから現実へと滑り落ちたのもまた事実で、その 安易に見える滑落がこの事件を一層に異様で分かりにくいものにしている。しかし、この異様さ、分かりにくさは、「弱い者いじめが楽しくてしょうがない」と いう所から、まずは考えてみることができるのではなかろうか。もちろん、いじめと殺人と毀損の間には越えがたい一線があるはずなのだが。

 他者の不在、それは人間としての自我、自己の不在なのでもあるのだが、少年にとって被害者の年少児たちは他者でありえたのか。女子高生コンクリー ト積め殺人の犯人少年達は、四十日あまりにわたって監禁し陵辱した被害者について、欲情といたぶりのサンドバッグの対象として認識する以外、何らの感情も 湧かなかったかのごとき感想を供述したという。 (未完)

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考える人の虚ろひ 池田晶子の孤独メモ ((2006/01/06)

ヨーロッパのブランドにさしたる関心もなく、 当然のことながら知識教養もないのだが、M氏に勧められてレヴィナス『われわれのあいだで』他二冊を読んだ。読んでいる。

「読む方もひどく息切れがする、不自然な姿勢の持続に窒息しそうになる」と、へーゲル哲学の難所を晦渋な言語表現の煙幕として透視する池田晶子がそう表現する。へーゲルを読んだことがないので分からないのだが、へーゲル前後の西洋哲学については「端的な確信ひとつ手に煙幕の中を進め!」と曰う池田が、「これは、理論ではない、何か祈りに似たものだ。」とレヴィナスを辛評する。まあ、そのレヴィナスが「言説の本質は祈りである。」と言つているのだから正鵠を 得ているのかも知れぬが。

確信と言うほどの手がかりはないのだが、三度四度とレヴイナスの声に耳を傾ける。なかなか辛抱のいる読書ではあるが、〈気分〉は通じるような。強固な一神教の伝統のうちにユダヤ人レヴィナスもいるはずであるが、池田の口伝による同じくユダヤ人スピノザの汎神論と共に、われ われの「東洋」にも一脈通じるょうなそんな〈気分〉を手がかりにして、再度レヴイナスに向かってメモをとる。

メモをとりながら、池田のレヴィナス辛評の不自然、ぎこちなさが気になってくる。西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」とやらを華厳経に関違づけ、「すべてがわたしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおのなかのすべて」と詩人の特権でさらりと言つてのける宮澤賢治のある種の気質的素質に言及する池田が、「私が私であるとき、私はきみである」ことを繰り返し語るレヴィナスに、「これは理論ではない、何か祈りに似たものだ。いや、祈りという心のかたちを私たちがもっという、その一点にのみ賭けられた祈りと言うべきか」として、理によって矛盾を突き、「存在」との孤独な闘いをTokyocityで「ぎりぎりの、独りきりの実践として」生きていると語る。もはや疑うことさえ信じてはいない、ということを信じている者が、信じるということの基点と極北にこそ「祈り」は位置するであろうことを分からぬはずはないのだろうから、「祈りという心のかたちを私たちがもっという、その一点にのみ賭けられた祈り」 の精確な意味を掴んでいぬはずはない。

 何に、何処に池田はレヴイナスを誤読したがっているのか。撞着でしかないはずの「共生の倫理」が不可能だなどとは、理に優り理に溺れる者の物言いでしかなかろう。何故にそこで理に走り逃れるのか。

 口伝という文体で西洋哲学の核心をバサバサと解きながら、思わず知らず地声が見え隠れする。そのような印象で一読。思想や哲学やを職業してしま う学者や文化人を一刀両断する小気味よさ、そんな怪傑ぶりにお江戸の粋人の倦怠と厭世を感じて再読。さらに、理に優る理、理を超える理、信に優る信、信を 超える信、そのような何ものかを地平に見ながら引き返して<る姿を見て何故、と三読。

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