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2014年12月 1日 (月)

考える人の虚ろひ 池田晶子の孤独メモ ((2006/01/06)

ヨーロッパのブランドにさしたる関心もなく、 当然のことながら知識教養もないのだが、M氏に勧められてレヴィナス『われわれのあいだで』他二冊を読んだ。読んでいる。

「読む方もひどく息切れがする、不自然な姿勢の持続に窒息しそうになる」と、へーゲル哲学の難所を晦渋な言語表現の煙幕として透視する池田晶子がそう表現する。へーゲルを読んだことがないので分からないのだが、へーゲル前後の西洋哲学については「端的な確信ひとつ手に煙幕の中を進め!」と曰う池田が、「これは、理論ではない、何か祈りに似たものだ。」とレヴィナスを辛評する。まあ、そのレヴィナスが「言説の本質は祈りである。」と言つているのだから正鵠を 得ているのかも知れぬが。

確信と言うほどの手がかりはないのだが、三度四度とレヴイナスの声に耳を傾ける。なかなか辛抱のいる読書ではあるが、〈気分〉は通じるような。強固な一神教の伝統のうちにユダヤ人レヴィナスもいるはずであるが、池田の口伝による同じくユダヤ人スピノザの汎神論と共に、われ われの「東洋」にも一脈通じるょうなそんな〈気分〉を手がかりにして、再度レヴイナスに向かってメモをとる。

メモをとりながら、池田のレヴィナス辛評の不自然、ぎこちなさが気になってくる。西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」とやらを華厳経に関違づけ、「すべてがわたしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおのなかのすべて」と詩人の特権でさらりと言つてのける宮澤賢治のある種の気質的素質に言及する池田が、「私が私であるとき、私はきみである」ことを繰り返し語るレヴィナスに、「これは理論ではない、何か祈りに似たものだ。いや、祈りという心のかたちを私たちがもっという、その一点にのみ賭けられた祈りと言うべきか」として、理によって矛盾を突き、「存在」との孤独な闘いをTokyocityで「ぎりぎりの、独りきりの実践として」生きていると語る。もはや疑うことさえ信じてはいない、ということを信じている者が、信じるということの基点と極北にこそ「祈り」は位置するであろうことを分からぬはずはないのだろうから、「祈りという心のかたちを私たちがもっという、その一点にのみ賭けられた祈り」 の精確な意味を掴んでいぬはずはない。

 何に、何処に池田はレヴイナスを誤読したがっているのか。撞着でしかないはずの「共生の倫理」が不可能だなどとは、理に優り理に溺れる者の物言いでしかなかろう。何故にそこで理に走り逃れるのか。

 口伝という文体で西洋哲学の核心をバサバサと解きながら、思わず知らず地声が見え隠れする。そのような印象で一読。思想や哲学やを職業してしま う学者や文化人を一刀両断する小気味よさ、そんな怪傑ぶりにお江戸の粋人の倦怠と厭世を感じて再読。さらに、理に優る理、理を超える理、信に優る信、信を 超える信、そのような何ものかを地平に見ながら引き返して<る姿を見て何故、と三読。

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