500 医学概論

2014年11月23日 (日)

器質的と機能的について (2002/05/16)

◆器質的疾患(障害)と機能的疾患(障害)という区分法がある。形態的変化に主眼を置いた疾病の見方と、機能的変化に主眼を置いた場合の見方である。 形態と機能は、物の形と物の働きということであり、二分されるような対立概念ではないはずである。物の空間的な配置構造が形態であれば、その形態がある時間構造をもって変化し織りなす様を機能と呼べるのかも知れない。細胞は形態であり、生命は機能であろうか。 だから、正確に言うとすれば、より固定的で非可逆的でマクロ的な形態変化が一定の機能障害状態を伴った場合を器質的疾患(障害)、より変動的で可逆的でミクロ的な形態変化に伴う機能障害状態が一定水準以上の状態になった場合を機能的疾患(障害)、と呼べるのではないか。 この一定の機能障害状態を〈侵害状態〉と呼ぶことにする。 東洋的なシンボル語を使えば〈邪〉ということになる。

◆鍼灸の世界では屈指の理論家だった大阪の故米山義先生は、鍼灸治療の適応判断についての考察なとで、「器質的障害と機能的障害」の区分や移行の問題について繰り返し言及されていた。その繰り返しの理由は、鍼灸の適応判断という一種の流行の議論があって、その中で器質的障害の強さが鍼灸の適応を決める云々といった、鍼灸を現代医学の中で正当に評価してもらい位置づけるための自己定義論として「器質的障害と機能的障害」の区分を強く意識されていたためと思う。 20数年前、その米山義先生らと月一回「豊津勉強会」という勉強会をしていたころ、私たちの間では既にこの流行論議にはケリがついていた。ケリのつき方は、器質的と機能的は前項のごとくマクロとミクロの相違にすぎぬということ、医療独占者の独善的攻撃と侮りさえなければ、補完的であることに劣情虚勢をもつ必要がなく、鍼灸の適応議論はもっと現実的で臨床的に実りあるものになるだろう、というものだったと思う。

◆器質的障害つまりは目で見えるほどの形態的変化、形の異常であっても、それに一定の機能異常が伴わない限りは病を構成しない。骨や関節の変形があったとしても、それが単独要因として身体の働きを阻害し、身体感覚に異常をもたらさず、生活機能に障らぬ限りは、ただの見かけ上の変形に過ぎない。いわば皺やシミのようなものであろう。 私も中等度の腰椎椎間板のヘルニア、という形態的異常の持ち主で、慢性の腰痛持ちである。臥位での睡眠も6時間が限度。これは椎間板ヘルニアを含む腰と背中の骨格の歪みと、姿勢を支えている筋肉や靱帯の疲労耐久性の臨界点なのだろう。だから、日中の運動状態によっては8時間にも延びるし、休日が続くと5時間になったりする。

◆人間長く生きてきて、変形も歪みもない、ということはあるまい。 変形も歪みもそれ自体が病気とは言えないだろう。変形も歪みも、周りの筋肉や筋に疲労を惹起しやすい構造的な弱点となりうるが(その結果という見方もあるが)、長年の生活は必ず変形や歪みに適応した生活態度や姿勢によってその弱点を消去するように働くだろう。 傍目にはびっくりするような腰曲がりでも、大きな歩行のブレを伴う股関節脱臼でも、必ずしも痛みがあるとは限らない。 だから、「びっこ」で適応していた人に、股関節の人工骨頭置換術を無理矢理に勧めて、動く範囲は広がって整形外科医は満足したけれど、当のご本人は今まではなかった痛みのために苦しんだ、というエピソードが警鐘として語り継がれたりする。

◆変形や歪みは関節や筋肉に疲労を生じさせる構造的弱点とはなり得るが、その疲労が臨界点に達し機能障害状態あるいは〈侵害状態〉が生じるには、もう少し複雑で複合的な要因連鎖が必要なようである。

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2014年10月19日 (日)

初心に帰ることの難しさ (2001/11/19) 

惜しまれて現役引退した精神科医の中井久夫先生の『分裂病の回復と養生』から。

医学においては「科学」「知識」と並んで、いやそれ以上に「スキル」が重要なのはいうまでもなく、患者が求めているものは「スキル」であって、学問知識ではない。

「スキル」は英語にしかないらしい言葉であると述べ、看護教育では既に採用されているというドレファス兄弟の「スキルの五段階」を、遅れた医学界でも採用すべきであるとされている。
「スキル」は、単なる技術でも技能でもなくもっと包括的で総合的な人間の実践能力のようであるが、技倆という言葉は近いのではないかと思われる。

その五段階は、①初級、②中級、③上級、④専門家、⑤エキスパートとされている。それぞれの段階については解説しないが、最上段階で「○○の神様」ともい えるエキスパートが間違いを犯すと大変なことになるとして、ベテラン・パイロットが初等教本通りに動く初級パイロットに手を焼いた例をあげて初心に戻るこ との大切さ難しさを説いておられる。

・・・いかなるエキスパートも完全なエキスパートでないこと、エキスパートが、私たちの諺でいえば「智者、智に溺れ る」ことがありうること、その迷いは初級者よりも大きく、及ぼす被害も大であること、エキスパートが迷ったら、第一段階すなわち初心に戻るべきこと、であ る。初期教本に戻るべきことは、「エキスパート」に限らない。すべての段階の人は、迷妄に陥りうるし、陥った時には一つ前の段階に戻るべきであ る。・・・・ただちに、若い人にセカンド・オピニオンを求め、ケース・スタデイの批判にさらされればよい。時には、選手交代をしてもらえばよい。

 私が追加すれば、「エキスパート」だから、「専門家」だからという誇りと周囲の眼とが正しくものを見、行動することを邪魔しがちなことである。私は診察 の途中でも、若い人たちの知恵を仰ぎに行って、セカンド・オピニオンを求めた。そうしてよかったことは多く、そうしなくてよかったことは皆無である。

      
こんな先生ばかりであったら、というのは難しい話であるばかりでなく、一歩翻れば自分自身もそんな困難の渦中にいつもいて、たくさんの失敗を重ねているのだことに気づかされる。

ただ不遜にも私が追加させてもらえれば、「患者に学ぶ」ことも追加しておいてよいのではないかと思う。

玄人が素人を見下し、ないがしろにしがちなのはどんな世界でもいえることであるが、また、みせかけの謙虚さで素人レベルにすり寄っているだけでは玄人の存在価値がないこともこれまた真実であろう。

私たちは、知識・経験という色眼鏡なしには専門家たり得ないが、その色眼鏡を一時はハズし違う眼鏡に掛け替えることはできる。難しいことであるけれど。

理論や学説に惑わされず、自分の五感と自前の頭で素直に患者さんの示している現象を観察し、ホームズの如き推論を重ねることの大切さを思う。

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